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【正しい作法で神様にお願いを】神社を参拝する際に知っておくべき5つの作法

お正月には新年の挨拶、受験前には合格祈願、恋人が欲しい時は恋愛成就など各々の思いを胸に、神社を参拝する方はたくさんいます。

ところで、神社の参拝には、様々な作法があります。作法をきちんと守れていると自信を持っていえる人は、どれだけいるでしょうか?参道の歩き方の作法や、お賽銭の入れ方の作法、参拝の作法……などなど。せっかく参拝をするのですから、正しい作法を知り、正しく神社の神様と向き合いたいですね。

今回は、意外と知られていない神社を参拝するときの作法について紹介していきます。

神社を参拝する際の作法①

参道の歩き方


出典:写真AC

神社の入り口である鳥居をくぐった先が、参道となります。鳥居をくぐる際には、軽く一礼をしましょう。参道は、中央を歩いてはいけません。参道の真ん中は「正中」といわれ、神様の通り道となっています。

参拝者は、参道の端を歩きましょう。その際、右側を歩く人は右足から、左側を歩く人は左側から鳥居をくぐるのが、正しい作法だとされています。通行する側と逆足の運びだと、神様に足を向けることになるからです。

神社を参拝する際の作法②

手水の作法


出典:写真AC

参拝をする前には、手水舍(てみずや)で手と口を清めましょう。なぜ清める必要があるかというと、神様へのご挨拶の前に、罪や穢れを祓うためです。清めの作法は、以下の流れになります。

1.右手に柄杓を持って、水を汲み、左手を洗う

2.左手に柄杓を持ち替えて、右手を洗う

3.右手に柄杓を持ち替えて左手に水をため、口をすすぐ(柄杓に直接口をつけるのは作法に反します)

4.もう一度、左手に水をかけて洗う

5.最後に残ったお水で柄杓を縦にし、柄杓の柄の部分を流す・柄杓を元の位置に戻す

手水については詳しくこちらの記事にまとめてあります。

【日本人ならば知っておきたい!】手水の正しい読み方と作法

神社を参拝する際の作法③

二礼二拍手一礼


出典:写真AC

神殿前に来たらまず、鈴を鳴らします。神社の神様に参拝に来たことを知らせる意味があります。それから、お賽銭を静かに入れます。そして、二礼二拍手をします。「二礼」は、神前に向かって二回深くお辞儀です。背中を平らにし、腰を九十度おりましょう。

「二拍手」は、胸の高さで両手の手のひらを合わせてから、右手を少し下にずらします。肩幅に両手を開いてから、二回柏手を打ちます。手を合わせたまま、普段の生活に感謝の祈りをします。その際、名前と住所を伝えましょう。

それから聞きたいこと、伝えたいこと、誓いなどのを述べましょう。最後に深く一礼をします。

注意したいのは、神社は願いを叶える場所ではないということです。神社はあくまでも、神様に感謝し、「誓い」を立てる場所です。「家族が病気になりませんように」「恋人ができますように」「夢が叶いますように」など、願い事を伝えてしまいがちですが、まずは日頃の感謝と、努力を前提とした「誓い」を伝えましょう。

神社参拝の作法は一般的には上記の流れになりますが、神社によっては参拝の作法が異なる場合があります(出雲大社など)。

神社を参拝する際の作法④

賽銭について


出典:写真AC

お賽銭はもともと、金銭ではなく、お米を白紙で巻いて包んだ「おひねり」を供えていましたが、時代と共に貨幣が普及し現在の形になりました。

つまり、お賽銭は神様へのお供え物という意味を持ちます。賽銭箱にお金を入れる際は、心を込めて、静かに入れるようにしましょう。お賽銭を遠くから投げ入れたりするのは失礼にあたりますので、注意しましょう。また、家族や友達と参拝するときも、みんなでまとめて入れるのではなく、それぞれお賽銭を用意してお供えするようにしましょう。 

賽銭は気持ちなので、金額にはあまり意味はありません。ですが、数字の語呂合わせによる願掛けが一般的に普及しています。例えば、5円「ご縁がありますように」、29円「福が来ますように」などです。

逆に縁起が良くない組み合わせもあります。例えば、69円「ロクなことがない」、95円「苦しいご縁にあう」などなど。お賽銭の語呂合わせはたくさんありますので、自分に合った語呂合わせを探してみるのもいいかもしれません。

お賽銭については詳しくこちらの記事にまとめてあります。

【お賽銭は投げちゃダメ?】神社を参拝する際の基本作法と注意点

【日本一の湖上に広がる大輪の花】琵琶湖大花火大会|2018年日程や魅力

琵琶湖大花火大会とは?

琵琶湖と言えば全国的にも知名度の高い、滋賀県にある日本一大きな湖です。その琵琶湖畔で毎年夏に行われているのが「琵琶湖大花火大会」。関西ならではのイベントとして吉本芸人たちの爆笑トークショーもあり、毎年大勢の人出で賑わっています。

周囲を山々に囲まれた琵琶湖に打ち上げられる花火は約10000発。海とは異なり湖面には波が無いため、打ち上げられた花火が湖面にも鏡のように映り、幻想的な美しい光景が繰り広げられます。

例年35万人ほどの来場者数が訪れます。

琵琶湖大花火大会2018年の日程・アクセス


出典:写真AC

開催日:8月7日(火)予定(例年8月8日) 小雨決行ですが、荒天の場合は8月11日(金)に延期予定です。

打ち上げ時間:19時30分 〜 20時30分予定です。

問い合わせ先:びわ湖大花火大会実行委員会事務局

打ち上げ場所:大津市浜大津 滋賀県営大津港沖水面一帯

アクセス: メイン会場となる琵琶湖岸への最寄り駅は JR琵琶湖線ならば大津駅、膳所駅 徒歩約15分 JR湖西線ならば大津京駅 徒歩10分 京阪電車ならば浜大津駅、島の関駅 徒歩約5分 となり、公共交通機関からのアクセスは良好な場所にあります。

メイン会場ではなく湖西側の皇子山運動公園、皇子山陸上競技場などで見学する場合は、JR湖西線 大津京駅 徒歩10分もしくは、京阪電車 別所駅、皇子山駅 徒歩5分となります。

花火終了時、大津駅はJR、京阪電車ともに例年大混雑となり入場制限も行われています。当日は臨時電車が増発されるので慌てることなく、時間をずらすなど余裕を持って行動することが必要です。 

琵琶湖大花火大会の歴史

元々開催されていた浜大津花火大会へ、滋賀県と大津市も主催団体に加わり、 1984年第1回びわ湖大花火大会が開始されました。

琵琶湖大花火大会の特徴・見どころ


出典:写真AC

約10000発の花火ですが、やはり外せないのが水中スターマインです。湖面近くで花火を爆発させるので、湖面上にも華麗に半円形が映り込み幻想的な世界を創りだしています。

夜空に大輪の花を描く打ち上げ花火も多数ありますが、この花火大会では琵琶湖の湖面を活かした水上爆破も多いため、やはり湖面に近い会場で見学する方が楽しめます。

琵琶湖大花火大会の座席情報


出典:写真AC

有料観覧席は滋賀県営大津港管理用通路・修景緑地などに約27000席を設置しています。 大津駅観光案内所などの窓口での対面販売は現金での取扱いとなり、電話で予約はできません。

チケットぴあやローソンチケットなどのオンラインによる販売は、各プレイガイドの規定に準じて行います。 1席 前売りが3,900円、当日券が4,400円 となっています。 販売所の詳細は、琵琶湖大花火大会実行委員会のホームページに記載されています。

琵琶湖大花火大会の駐車場情報や混雑情報


出典:写真AC

大会当日はメイン会場となるエリアだけでなく、広範囲で交通規制が行われるため、大渋滞を引き起こします。また開会時間が近づくと会場付近は歩行者専用道路となり入出庫ができなくなるので注意が必要です。花火大会終了後交通規制は徐々に解除されていきますが、場所によっては24時まで規制される箇所もあります。

会場に最も近い駐車場は会場まで徒歩1分の大津港駐車場です。地下駐車場で一日最大800円の安さもあり大人気の駐車場ですが、その人気故、例年15時には満車となっています。

浜大津アーカスや琵琶湖ホール駐車場もありますが、大津港同様早めに満車になります。また出庫時も大渋滞となるため、かなりの時間の余裕が必要です。また周辺道路の渋滞の後、名神高速道路の大津ICから京都東IC付近も大渋滞となっています。 

【湖上を彩る四万発の花火】諏訪湖祭湖上花火大会|2018年の日程や魅力

諏訪湖祭湖上花火大会2018年日程とアクセス|有料席情報も

諏訪湖祭湖上花火大会とは?

 諏訪湖湖上花火大会とは、その名の通り、長野県の諏訪湖を舞台とした花火大会です。 水深の比較的浅い湖である諏訪湖の特徴を生かし、湖の中に発射台を設置することで岸の安全を確保しつつも、大迫力の花火を楽しめるつくりとなっています。

打上数は約40,000発です。その数は日本全国でも最大規模で、さらに花火が湖面に映ることによって「花火が2倍楽しめる」という評もあります。 来場者数は約50万人と言われる諏訪湖湖上花火大会、その魅力に触れていきましょう。

諏訪湖祭湖上花火大会 2018年の日程・アクセス


出典:写真AC

諏訪湖祭湖上花火大会の2018年日程は8月15日19時からとなっています。 ですが、開門時間は14時予定とされているので注意が必要です。 雨天決行となっていて、多少の雨では中止にはなりませんが、2013年の花火大会ではゲリラ豪雨によって中止になったこともあります。

最寄り駅はJR中央本線上諏訪駅、そこから徒歩10分程度となります。 自動車でなら中央自動車道諏訪ICまで東京、名古屋から2時間。そこから諏訪湖方面へ約15分いうところですが、これは混雑を計算に入れていない時間です。

当日は特別ダイヤで電車の増発もあり、また非常な混雑が予測されるため、実行委員会側からも電車の利用が推奨されています。 

諏訪湖祭湖上花火大会の歴史


出典:写真AC

諏訪湖湖上花火大会は1949年に、「納涼諏訪湖花火大会」という名前で始まりました。第一回目の見物人は約5万人程度だと言われています。 その後、何度か名前を変えながら現在の名称に落ち着きました。

元々は、終戦の4年後という混乱の中、心を慰めて希望につなげ、市民が一日も早く立ち直ることを願って開催されました。 ですから、今でも開催は8月15日の終戦記念日であり、花火の前には戦没者への黙祷の時間が設けられています。

諏訪湖祭湖上花火大会の特徴・見どころ


出典:写真AC

全国屈指の規模を誇る諏訪湖祭湖上花火大会ですが、その特徴は規模の大きさだけではありません。 まず第一に、湖上で行われることです。湖中には初島という、打ち上げのために造成された人工島があるほどです。

諏訪湖祭湖上花火大会の象徴である水上スターマインは、諏訪湖湖面に半径300メートルの半球を尺玉などの大花火によって作る珍しいものです。 また、全長約2kmの大ナイアガラは諏訪湖を囲むように配置され、圧倒的なスケールを誇ります。

そして第二に、周りを山に囲まれた盆地であることです。 一度周囲に放たれた花火の轟音が、山に反響して帰ってくるため、身体に直接響くような音の余韻が数秒残ります。 光だけでなく、音でも臨場感を高め、その迫力は圧倒的なものです。 

長良川花火大会の2018年日程・アクセス|ホテルや穴場スポットも

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木更津花火大会2018年日程|有料席情報や穴場スポットまで

【小紋唯一の略礼装】江戸小紋の魅力と「三役」を紹介

小紋と江戸小紋の違いは?

小紋(江戸小紋含む)というのは着物の柄の一種で、小さい柄が全体に広がっていることからこの名前が付けられています。小紋の模様は上下方向がなく、柄も全体につけられているため、仕立てのときや柄付けが比較的簡単です。

小紋の多くは型染めという技法で柄がつけられており、縞模様や紅型、更紗、絞りとバリエーションも豊かです。

カジュアルな雰囲気の柄が多く、模様の種類や大きさなども自由ですので、自分らしい着物を選ぶ楽しさがある一方、江戸小紋を除く小紋は普段着としてしか着用することができません。

そのため、普段着として着物を着る機会が少なくなった現代では、小紋はもちろん、江戸小紋も所有していない人が多いのも現状です。

小紋の中で唯一略礼装として着られる江戸小紋


photo by sayo ts

江戸小紋は、小紋の中でも唯一、紋を入れて略礼装として着用することができます。

格式としては色無地と同等になりますので、ある程度フォーマルな席でも着用できることから、小紋の中では江戸小紋が最も人気があります。

江戸小紋の特徴は、ほとんどが単一の色で描かれており、非常に細かい柄で、遠目に見ると色無地に見えるという点です。江戸小紋は、元々無地であった武士の礼装着に、渋めの色で細かい柄がつけられるようになったのが由来と言われています。

武士の礼装である裃には専用の小紋柄があり、さらに藩によって独自の柄を定めるようにもなっていきました。町人や商人が小紋柄を取り入れるようになってからはモチーフや色彩も自由になっていきましたが、当初の武士の礼装として形式化している江戸小紋の柄は、今でも一般的な小紋より格式の高い柄として扱われているのです。

江戸小紋はどんな時に着る?

江戸小紋は、いろいろなシーンで着用できる点が魅力です。例えば、紋を入れずに名古屋帯やおしゃれ用の袋帯を締めれば、江戸小紋は、ホテルなどで行われる同窓会や食事会、習い事までカジュアルに着こなせます。

一方で、ある程度年齢を重ねて落ち着いた大人の女性になった時は、紋を入れて格式の高い袋帯を締めることで、子供の卒入学式や部下の結婚式、フォーマルなパーティーなどに着用可能です。それが江戸小紋です。

一見色無地に見えますので、年齢や立場に応じて、色合いや帯を工夫しましょう。

【土から作る焼き物】千葉県で『備前焼』を学べる本格的陶芸体験に行ってきました!

こんにちは!粋の体験レポーター松本です!

今回訪問したのは、千葉県の長柄町六地蔵にある『六地蔵窯』。

陶芸家の安田裕康さんは岡山県で備前焼を学び、36歳で長柄町六地蔵に移住。開墾した山に登り窯を建設し『六地蔵窯』として独立した職人さんです。

素材である土づくりから、薪を集め、ろくろ回し、窯焚きまでを一貫している安田さん。ここまで一貫しているやきもの職人は全国を数えても1%程度だそうです。

今回は普段の陶芸家教室などでは味わうことのできない本格的やきもの職人体験をお届けします!

六地蔵窯の陶芸家・安田裕康さん

<プロフィール>

昭和45年 鹿児島県に生まれる

平成7年 備前焼作家、脇本博之に師事

平成12年 第51回岡山県美術館入選

平成13年 第18回田部美術館大賞茶の湯の造形展入選

平成19年 初窯

千葉県長柄町六地蔵へ出発!

千葉県の六地蔵窯は、房総半島の中央部に位置し、豊な自然に囲まれた地域です。

東京方面から車で1時間半ほど走ったところに六地蔵窯はあります。

笑顔で出迎えてくれたのは、六地蔵窯の代表である安田裕康さん!

「本日はよろしくお願いしますね」

挨拶する前に声をかけてもらえたので、緊張も解け、とても安心することができました。

自己紹介を済ませ、工房兼自宅へ招いていただきました。

中へ入ると、右手は展示室、左手は作業場となっていて、土の香りが広がるとても魅力的な空間となっています。

早速工房を案内していただきました!

まずは薪が保管されている場所へ

窯で焚く薪は『赤松』という木になります。赤松は松根油という油をたくさん含んでいて、燃やせば火力は強く、煙をたくさん出すので、窯で焚くにはぴったりです。

特に安田さんの制作する焼締は化粧になる釉薬を使わずに土の肌を生かしつつ、煙で柄をつけていく焼き物なので、すごく大事な素材になります。


1回の窯焚きで使用する赤松はなんと20トン!

その薪をお一人で準備されているそうです。


続いては土づくりの作業場へ

日本は火山大国であり、日本ならではの粘土が豊富に存在する焼物大国です。それでも土から自分で作る職人さんは少なく、工場で作られた粘土をビニール詰めで買うのが当たり前になってきています。

 

「僕はやきもの職人のなかでも変わり者だと思うよ(笑)」

 

そのなかでも安田さんは、土づくりから行い、備前の土と千葉の土を配合してオリジナルの焼き物を制作しています。

ついに念願の登り窯へ!

窯には焼き物を入れる部屋が4つあり、各場所で焼き具合(柄)が変わります。

手前に置くと、土の地肌を生かした色になり、奥に置くと白や赤など濁りのない色になります。

同じ部屋でも置く場所によって、火の当たり方や煙の浴び方で色が変わるので、納得いく色合いや柄になるかは、できてからのお楽しみになります。

体験で作成した焼き物は自分の好きな場所に置いて焚くことができますよ!

最後に展示室へ

安田さんの作品を見せていただきました。

茶器や、コップ、燭台など様々な作品を手に取ってみることができます!

窯で焚いたあとの色合いや柄のイメージにあった作品があれば「こんな感じにしてください」とお願いすることでイメージに近づけることもできます。

購入もできますので、気に入った作品があれば安田さんに相談してみてください。

【七夕まつりに行こう!】日本三大七夕まつりの紹介と楽しみ方

七夕まつりの由来・意味・歴史

7月の初め頃になると、町のあちらこちらで七夕まつりの短冊が笹竹に吊るされているのを見かけたり、ニュースでも七夕まつりを取り上げたりするようになりますが、この七夕まつりはどのように始まったのでしょうか。

天の川にある牽牛星(彦星)と織女星(織姫)を擬人化し、年に一度出会うというような伝説は中国、日本のどちらでもあったようです。

織女祭(しょくじょさい)、星祭(ほしまつり)などともいい、中国伝来の行事を起源とする話には、女性の裁縫の上達を祈る乞巧奠(きこうでん)という風習から始まったといわれています。

乞巧奠は日本の奈良時代に宮中行事として行われており、食べ物の供え物を東の庭に置き、牽牛(けんぎゅう)と織女という二つの星を祀ったとあります。 また、日本の風習から紐解くと、「棚機(たなばた)つ女(め)」と呼ばれていた日本の機(はた)を織る女性への信仰的なものから始まったのではという説があります。

棚機つ女は人里から離れ水辺の機屋(はたや)に籠り、機織りをして神様をお迎えする乙女で、身体を清めるために沐浴を行いました。 そのせいか現在でも沐浴を行う風習が日本のあちらこちらでよく見られます。 更に7月7日は七日盆(なぬかぼん)といい、盆初めに当たります。

このように中国と日本の古来の風習が結びついたり、お盆の行事が合わさったりと様々な要素が入り混じり今日まで伝えられているのが七夕まつりなのです。

七夕まつりは日本で最初の頃は貴族たちの風習でしたが、江戸時代には武家や庶民にも広がりました。

7月6日の夜、庭にナスなどの野菜を供え、笹竹に和歌や願い事を書いた短冊や布を飾るようになり、裁縫や書道などの手習いごとの上達を祈りました。 また、その笹竹を7日になって河川や海に流すのを七夕送りといいます。  

日本三大七夕まつり①

仙台七夕まつりを紹介


出典:写真AC

日本各地に七夕まつりはありますが、日本三大七夕まつりと呼ばれている七夕まつりの1つに、宮城の仙台七夕まつりがあります。 江戸時代の初め頃、伊達正宗の時代から始まったともいわれていますが、1873年に太陽暦が採用されたのをきっかけに行なわれなくなった後、1927年に商人が七夕飾りを復活させたのが起源とされています。

毎年8月6日から8日の3日間に渡り行われ、200万人以上もの人出がある大規模なお祭りです。吹き流しなどの約3000本もの笹飾りが仙台市を彩り、地元では「たなばたさん」と呼ばれて親しまれています。

前夜祭には花火が打ち上げられ、市民広場のステージなどで催し物が開かれます。七夕飾りのコンテストやパレードも行われ、古来の星祭りの優美さと大小様々な七夕飾りの豪華絢爛さを両方味わえる貴重な七夕まつりです。

日本三大七夕まつり②

平塚七夕まつりを紹介


出典:フォト蔵

日本三大七夕まつりのもう一つは神奈川の湘南ひらつか七夕まつりです。 終戦後、商業振興策として1950年7月に復興まつりが開催されてから、平塚商工会議所や平塚市商店街連合会が中心となり、仙台七夕まつりを参考として1951年7月に第1回平塚七夕まつりが行われました。

そして1957年の第7回平塚七夕まつりから平塚市主催となりました。中心街に約500本もの飾りを配置し、メイン会場の「湘南スターモール」の飾りは特に大きく豪華絢爛です。七夕飾りのコンクールやパレードなどにも多くの人が集まっています。

日本三大七夕まつり③

安城七夕まつりを紹介


出典:安城七夕まつり公式サイト

日本三大七夕まつりの最後の1つは、愛知の安城七夕まつりです。 終戦後の1950年(昭和25年)頃から安城では商店街の大売り出しや花火大会が行われ始め、まつりの下地が育つ中、1952年(昭和27年)に安城市となり、他の七夕まつりを参考にして1954年(昭和29年)に初の「安城七夕まつり」が開かれました。

企画などすべてが現在のJR安城駅周辺商店街の人々により行われた市民発信のまつりで、次第に七夕の飾りをはじめ七夕まつりの準備をする人、七夕まつりに参加する人が増加し、1959年(昭和34年)に協賛会ができて今日の形が完成しました。

1978年(昭和53年)には日本商工会議所100周年記念「全国郷土祭」での見事な竹飾りから「日本三大七夕」の1つとして仙台・平塚と並び称されることになり、現在ではマーチングパレードや市民参加の催しも数多く行われ、100万人超えの人々が訪れる七夕まつりとなりました。 

【七夕の豆知識】短冊に願いを書く理由と種類別・七夕飾りの意味を紹介

木の種類とその特徴|生育地域・加工性・狂いをチェック

森林大国と呼ばれる日本には、ヒノキや杉、松をはじめとした木の種類が豊富に存在します。木材は人間・動物の生活にとってなくてはならない資源です。実際に、見渡してみると私たちの周りには木でできたものがたくさんあります。そこで、今回は日本にどんな種類の木が存在するのかをご紹介します。

森林大国である日本

はじめに述べたとおり、日本は森林大国です。木を使った工芸品が古くから発達日本はほとんどの地域が温帯に属しケッペンの気候区分では温暖湿潤気候か冷帯湿潤気候に属していることもあり比較的多くの木の種類が混在した国家となります

実際国土面積のおよそ70%が森林であると言われており実に木に恵まれた国なのですまた古くから木を使った工芸品が日本全国で発達しており中には経済産業大臣指定の伝統的工芸品として登録された木製工芸品も存在しています

例えば北海道の二風谷イタや兵庫の豊岡杞柳細工等があります工芸品には様々な木の種類が使われています。

では、さっそく日本の主要な木の種類を見ていきましょう。

日本を代表する木の種類その1<スギ>


出典:写真AC

本種は単型であり本種のみでスギ属(Cryptomeria属)になりますスギは多くの地域品種が存在しており天竜杉屋久杉立山杉吉野杉北山杉秋田杉山武杉等が有名です。

スギは本州北端から屋久島まで自生しますまた北海道各地にも広く造林されており、沢沿いなど比較的水分と栄養分に富む環境を好む傾向があります。用途としては主に住宅の柱材として利用されますその他の用途としては建築建具土木船舶車輛家具器具として使用されます。

その際には伐採して製材後に乾燥する必要があります角材の乾燥時に問題となる心材の含水率もヒノキ等と比較して高いため変異幅も大きいです含水率材は50%のものから200%に達する高含水率の材質も存在しスギ利用上の課題の1つとなっています。

日本を代表する木の種類その2<ヒノキ>


出典:写真AC

ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹となります。ヒノキは日本と台湾のみに生育しており、本州中部(福島県)以南から九州まで分布しています。ヒノキは古くから建築用材として用いられており特に寺院神社の建築には必須材質でした

正しく使われたヒノキの建築では1000年を超える寿命を保つ建物も存在します現在でも一般家庭でも多く利用されており特に和式建築物において高級材として使用されています。ヒノキは材質が軽軟で肌目は緻密特有の芳香と美しい光沢を持っています

弾力性靱性に富み狂いが少なく加工性耐久性に優れています。更に耐湿耐水性にも強く保存性が高いです

今回紹介する木の種類の中では、全ての面で優れた性質を有する万能型の材質と言えるでしょう。

日本を代表する木の種類その3<マツ>


出典:写真AC

マツは、マツ科の属の一つでマツ科のタイプ属となりますマツ属はインドネシアのような熱帯地域カナダのような冷帯市域等広範囲に亘って生育しています。マツは建築土木船舶材線路の枕木等に使われます。

マツの心材は淡褐色で辺材は黄白色です。またアカマツよりも重硬で、水や湿気に強いですが節が多く、やにつぼがあるので割れやすくて仕上げしにくい側面もありますまた今回の木の種類の中ではスギやヒノキと比べて耐腐朽性に劣るとされており、使いどころを選ぶ必要があると言えます

一般に二葉松は建材として柱や梁に用いより軟らかい五葉松類の材は水道用木管木型曲物塗物の下地など柱と比べて高度な加工が必要なものに用いられます。

日本を代表する木の種類その4<ブナ>


出典:写真AC

ブナはブナ科ブナ属になります落葉広葉樹で温帯性落葉広葉樹林の主要構成種です大きいものは高さ30mにも達するものがあります。ブナの樹皮は灰白色できめが細かくなっています。日本では北海道南部、本州、四国、九州に広く分布し低山の照葉樹林帯と亜高山の針葉樹林帯の間にはブナ林が存在しております。

ブナは曲げやすいという特徴を活かした椅子の脚等の家具に使われますその他としては建築内装材器具曲材合板船舶機械パルプスキー板ベニヤ材玩具材楽器の鍵盤ブラシの柄等に使われております。

ブナの主材は重硬均質です。また、腐朽しやすく乾燥の途中で狂いやすいという弱点があります一方で、硬ですが粘りがあり曲げやすいという側面を持っています。

伊根の舟屋の魅力と周辺おすすめスポット6選|海と共に生きる町

伊根の舟屋とは

丹後半島の北東部に位置する周辺約5キロの小さな伊根湾は、三方を山に囲まれ天然の防波堤のように外洋から湾を守る青島のお陰で、年中穏やかで潮の干満の差も少ない穏やかな海が特徴です。

古くから漁業で生計を立ててきた伊根の町は、船が生活に密着している暮らしであることや、水際まで山林が迫った独特な地形であることから、海面にせり出して建てられた家が多く建てられています。

民宿として観光客を受け入れている舟屋から見る海の景観や、湾を取り囲むように立ち並ぶ伊根の舟屋群が近年再評価され始め、年間30万人近い観光客が京都府与謝郡伊根町の伊根地区を訪れています。

江戸時代後期に建てられた舟屋を始めとする230軒の舟屋と130軒の土蔵で作られた伊根の舟屋群は、漁村では全国で初めて、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

伊根の舟屋の歴史


出典:写真AC

日本最古の浦島伝説が残る浦嶋神社の記述が当時の文献に残されていることから、伊根の舟屋群の歴史は今から約1,300年以上前に始まったと考えられます。伊根湾は古くから絶好の漁場だったことから漁業の歴史が長く、旧宮津藩に年貢としてブリを納めていたという記録が残されています。

ブリ以外にも鰹や鮪、海豚や鯨漁なども行われる恵みの海として伊根の漁村に住む人々の生活を支えてきました。 湾を囲むように配置された伊根の舟屋は、町のどこからでも伊根湾全体を見渡すことができる作りになっているとも言えます。

魚の大群や大物が湾に入れば一致団結して漁を行うことは、田畑がほとんどない小さな集落で生きていくために必要であったでしょうから、伊根の舟屋群は非常に理に適った建造物群として建築されたと言えます。

隙間なく立ち並び美しい景観を作り上げている伊根の舟屋群は、海と共に生きてきた伊根の先人達の生活の知恵が造り出した建造物群なのですね。

伊根の舟屋周辺おすすめスポット①

舟屋の里公園

舟屋の里公園は伊根湾の全景を見渡すことができる小高い丘の上にあり、全国でも珍しい舟屋が密集する伊根の舟屋群を一望でき、海上から見上げるのとは一味違った伊根の舟屋群の表情を見ることができるビューポイントです。

公園内にはシダレザクラ、ソメイヨシノの2種類の桜やツツジ、アジサイ、サルスベリなど四季折々の美しい花が咲き誇る花公園としても知られ、伊根の舟屋に住む人たちの憩いの場所としても機能しています。

公園に併設された道の駅には、朝伊根湾で水揚げされた朝揚げの旬の魚を楽しめるレストラン舟屋や、伊根の舟屋群を眺めながら休憩ができるラウンジ「FUNAYA」があります。

また、伊根の伝統的な保存食で鯖をぬか漬けした「サバのへしこ」や地酒、鮮魚を販売する土産物コーナーやコミュニティサイクルの貸し出しコーナー、観光案内所も完備しています。

舟屋の里公園
住所:京都府与謝郡伊根町字亀島459番地
電話:0772-32-0680 営業時間:11:00~17:00(1~2月は11:00~16:00) 定休日:火曜日(祝祭日の場合は営業)
アクセス:京都丹後鉄道「天橋立駅か宮津駅下車」路線バスで経ヶ岬、蒲入、伊根郵便局前いずれかのバス停で下車

搾りたてを味わう! 京都・丹後のジャージー牧場の新鮮な乳製品

八丁味噌とは?|歴史や作り方、老舗会社(カクキュー/まるや)など

八丁味噌とは?

豆味噌とは、原料に米を用いず、大豆と塩と水だけで作るものをいいます。八丁味噌というのは、その中でも特に愛知県岡崎市岡崎市八帖町で生産された味噌のことを指しています。

色の濃い赤味噌ですが、塩分濃度は11%と塩味はそれほど強くありません。むしろ、他の味噌と比べても薄いといえるでしょう。また、米を使用していないので糖分も少なく、甘味も控えめです。

最大の特徴は、大豆の旨味をぎゅっと凝縮したコクのある味わいです。酸味や渋みなども程よく混ざって、八丁味噌ならではの独特の風味を形作っています。東海地方では、味噌汁をはじめ、多くの名古屋飯に用いられている味噌です。

戦国時代に誕生していた?八丁味噌の歴史


出典:写真AC

八丁味噌の産地である岡崎市八帖町は、岡崎城から西に八丁(約870m)の位置にあることからその名前がつきました。もともとは、八丁村と呼ばれていました。

矢作大豆や吉良地方の塩、天然水などを入手しやすく、すでに戦国時代には豆味噌が作られていたと考えられます。

また、川に囲まれ湿度が高く、食べ物が腐りやすいことから、保存の利く味噌の製法がより発達しました。徳川家康が長寿だったのも、この豆味噌が理由だともいわれています。

兵食としても注目され、これに目をつけた大田弥治右衛門と早川久右衛門は、同時期に味噌の製造を始めました。これが、八丁味噌の起源です。

八丁村は陸路と水路の交わる要衝で、八丁味噌は各地へ輸送されるようになりました。江戸時代後期には、その出荷量の3分の1近くが江戸に送られていたといいます。

やがて、明治時代になると早川家の八丁味噌は宮内省の御用達ともなります。このことからも分かるように、当時は八丁味噌は高級品として扱われていました。しかし、戦時下には価格等統制令によってほとんど原価と変わらない公定価格をつけられることになります。

さらに大豆不足もあり、八丁味噌を作っていた両社は1940年に休業へ追い込まれてしまいます。それでも、戦後には営業を再開しました。1960年代後半には、海外への輸出も始まります。

さらに、1980年代にアメリカの有機食品認証を取得。オーガニックフードとして、現在では国内のみならず海外でも広く受け入れられるブランドとなっています。

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【2年に1度のお祭り】江戸幕府も支援した「山王祭」2018年日程や魅力

山王祭とは

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 山王祭は、東京都千代田区の日枝神社で行われるお祭りです。正式名称を「日枝神社大祭」といいます。 江戸時代の頃には、神田祭と並んで「天下祭」ともいわれていました。その神田祭と一年ごとに大祭を交代する形で、現在は毎年西暦偶数年に行われています。

この2つの祭に深川祭を加えると「江戸三大祭」さらに、京都の祇園祭、大阪の天神祭とならんで「日本三大祭」といわれることからも、その規模の大きさがよく分かります。

山王祭は、まさに日本を代表するお祭りといってよいでしょう。 祭りのメインである神幸祭では、神輿や山車とともに、王朝装束に身を包んだ氏子の青年たちが、行列を作って都内を練り歩きます。

他にも、子供たちが稚児の装束に身を包んだ「稚児行列」や、和菓子で福を招く「山王嘉祥まつり」、さらに浴衣で気軽に踊れる「納涼大会」なども山王祭の期間中に開催されます。 

山王祭 2018年の日程・アクセス

山王祭は、西暦偶数年の6月に本祭が行われます。2018年の日程は、6月7~17日となっています。 なかでも、メインとなる神幸祭は8日の午前7時30分~午後4時45分。稚児行列は、9日正午から、1時間置きに3回。山王嘉祥祭は、16日の午後1時から行われます。

日枝神社の最寄り駅は、

地下鉄の千代田線「赤坂駅」出口2から徒歩3分

南北線・銀座線の「溜池山王駅」出口7から徒歩3分

千代田線「国会議事堂前駅」出口5から徒歩5分 銀座線・丸の内線「赤坂見附駅」出口11から徒歩8分

車で行く場合は、首都高速霞ヶ関インターから5分となっています。

山王祭の歴史


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山王祭は日枝神社の大祭として、毎年旧暦6月15日に行われてきました。 その存在が大きくなったきっかけは、1590年に徳川家康が江戸城に入城して、鎮守とするようになってからです。

さらに1604年、三代将軍の家光が生まれると、徳川将軍家の産土神として信仰を集めるようになりました。 このような経緯から、山王祭も幕府から多大な資金を受けるようになり、御用祭とも呼ばれるようになります。

また、神幸行列は江戸城内に入場を許され、家光の代からは歴代将軍による上覧が恒例となりました。ここにおいて、山王祭は名実ともに「天下祭」 として盛大をきわめるようになったのです。 しかし、あまりに多くの金額がかかることから、1681年には神田明神の神田祭と隔年で行われるようになります。

さらに、江戸時代末期には天保の改革による倹約令の影響で勢いも衰えていき、最終的には江戸幕府の滅亡とともに天下祭としての役割を終えるのでした。 明治時代には、東京市電の架線により山車が廃止となりました。そして昭和にはとうとう、日中戦争の激化により祭り自体が中止となってしまいます。

神社が東京大空襲で焼失したこともあり、中断は14年間も続きました。 しかし、1952年には神幸祭を再開。そのスケールの大きなお祭りは、現在まで受け継がれています。

山王祭の特徴・見どころ


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山王祭の最大の見所は、何といっても神幸行列です。 派手な神輿や山車とともに、王朝装束に身を包んだ500人が300mもの行列で進んでいく様は圧巻。300年前から同じように繰り広げられてきたその光景には、歴史のロマンを感じてしまいます。

また、山王祭の期間中は行列以外にも、お茶やお華など、江戸時代から伝わる伝統芸能の数々が境内で催されます。 普段、触れることのないような文化に触れるよい機会となるでしょう。

「稚児行列」では、子供の健やかな成長を祈願することもできます。スタジオで記念撮影もできるので、お子様がいらっしゃる方はぜひ参加してみてはいかがでしょうか。

「山王嘉祥祭」は、この日に仁明天皇が疫病退散の祈願に16のお菓子を供え、嘉祥と元号を改めたことがきっかけとなっています。和菓子職人による和菓子作りが目の前で見られるチャンスは、なかなかありません。参拝者には和菓子とお茶が振る舞われるのもうれしいところ。

3日間に渡って行われる「納涼大会」では、多くの地元の人たちが浴衣で参加します。夜店も出るので、縁日気分もしっかり味わえます。

山王祭の山車・神輿

江戸時代の山王祭には、神輿と山車による神幸行列がそれぞれ行われていました。 160以上もある氏子の町々から45番もの山車が引き出され、江戸の町を埋めつくしていたといいます。それぞれ、人形や花、鉾などで飾りつけられ、その華やかな様子は、まさに天下祭と呼ぶのに相応しいものでした。

時代が下ると、その趣向はますます過度なものになっていき、幕府から何度も取り締まられているほどです。 しかし、明治時代になると電線が通るようになったため、高さを誇る山車や錦旗などは使うことができなくなってしまいました。

その頃から、代わりに多く使用されるようになったのが神輿です。 特に、200年から結成された「下町連合渡御」は、12基の神輿が勢揃いするセレモニーなどが見どころの一つとなっています。

現在では、2基の鳳輦と1基の宮神輿、そして美少年山車や東郷元帥山車などが行列を形作っています。 一方、使われなくなった山車は関東大震災や戦災によってその多くが消失してしまいました。

しかし、なかには各地で大切に保管されていたものもあり、「土佐坊」や「神功皇后」、「武内宿禰」などは日枝神社宝物殿で今でも見ることができます。

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