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【七夕の豆知識】短冊に願いを書く理由と七夕飾りの意味を紹介

 七月七日は七夕です。シーズンに近づくにつれて、学校やショッピングモールの中では笹の葉や短冊などの七夕飾りを数多く目にすることと思います。スーパーには、七夕に因んだご飯やお弁当もたくさん売られていますね。

七夕の日には無病息災を願い、そうめんを食べることでも有名です。 ところで皆さんは、なぜ七夕の日に短冊へ願いを書くようになったか知っていますか?

短冊の由来と七夕飾り

そもそも、七夕の歴史は奈良時代まで遡ります。この時代に、唐(今の中国)から「乞巧奠(きこうでん)」という行事が伝わりました。

乞巧奠は牽牛と織女の伝説に因んで、七月七日の日に女性が裁縫の上達を願い、七孔針という裁縫針に五色の糸を通したものをお供えしました。もう1つ、日本には元々「棚機津女伝説」というものがありました。ちなみに「棚機」は、「たなばた」と読みます。

古い日本の行事で、神様のために選ばれた乙女が棚機という織り機を使って着物を織るという習慣です。この2つが結びついて、日本での七夕が誕生しました。平安時代では、7月に必ず祝う年中行事となっています。 この通り、元々七夕は手芸の上達を願う行事だったので、昔は糸がお供えされていました。

次第に七夕の行事が貴族から民衆へと伝わっていきます。しかし糸はこの時代、とても高価なものでした。そのため、糸の代わりに紙を小さく切ったものを飾ったのが短冊の起源とされています。平安時代には、梶の葉に文字を書いて笹に吊るすという風習がありました。

これが元となり、江戸時代では短冊に願い事を書くと夢が叶うという伝説が生まれました。 願い事を書いて笹に吊るす短冊を初めとして、七夕飾りには様々な種類があることをご存知でしょうか?

今回はメジャーなものからマイナーなものまで、沢山の七夕飾りを見てきましょう!七夕飾りは、折り紙でも簡単に作ることができるので良かったら調べてみてください。

七夕飾りの意味を紹介①

吹流し


出典:写真AC

それでは、笹に飾りつける七夕飾りを6つ紹介します。まず1つ目は、「吹き流し」を紹介します。吹き流しは、くす玉の下にひらひらとした糸が幾つも取り付けられたもので、七夕飾りの中でも花形で主役級の飾りです。

ひらひらとした部分は、織姫の織糸を意味していて、昔の織糸を垂らした形を模しています。この飾りには、裁縫や手芸の上達を願うという意味が込められています。

七夕飾りの意味を紹介②

網飾り

出典:写真AC

次に「網飾り」を紹介します。網飾りは漁に使う網を模している飾りで、形もそのような見た目のものになっています。この飾りは漁業の繁栄を願うという意味もありますが、網でたくさんの魚を捕まえる事から、食べ物の豊作を祈り、幸せを掴み取るという意味が込められています。

七夕飾りの意味を紹介③

提灯


出典:写真AC

三つ目は「提灯」を紹介します。提灯というと、七夕飾りよりもまず先に、お盆の時期とかによく見かける本物の提灯を連想しますよね。

七夕の提灯は、紙に切れ目を入れて丸めたシンプルな形のものです。提灯は昔は灯りとして使われていました。そのため七夕飾りの提灯には、心を明るく照らしますようにという意味が込められています。 

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ニポポと網走刑務所の驚きの関係|歴史・材料・お土産もチェック!


出典:ウィキメディア・コモンズ

ニポポとは

「ニポポ」とは網走(あばしり)に行くとよく見受けられる、こけしのような形をした木彫りの人形になります。「ニポポ」にはアイヌ語で「小さい木の子供」や「人形」という意味があり、魔除けや幸運を呼ぶお守りとして使われていました。また「ニポポ」にお願い事をすると、必ず叶えてくれるとも言われています。

ニポポの歴史


出典:写真AC

「ニポポ」は1954年に創出されました。元々アイヌの人々は、子供が産まれた際に、「健やかに育ちますように」とお守りとして木の枝を子供の着物などにつけておりました。その木の枝のお守りをルーツとして、「ニポポ」というお守りを作ろうという原案になったと言われています。

そして「ニポポ」の形やデザインは、樺太・ウィルタ族、またはニブヒ族の木彫り神である「セワポロロ」に似ており、その「セワポロロ」を原型として「ニポポ」は作られました。

そして「ニポポ」が創られてから、狩漁で山や海に向かう際には、「ニポポ」にお祈りをしてから出かけるようになりました。また獲って来たもの食べる前に、先に「ニポポ」の口元に与え、感謝をしていました。

特別な願い事が叶った際には、感謝を込めて「ニポポ」の首にショールなどの装身具で飾りつけを行います。「ニポポ」1954年に創出されてから、お守りだけでなく、街のモニュメントや様々なところに登場し、網走の人々から大切な存在として扱われています。

ニポポと網走刑務所の関係


出典:写真AC

なぜ「ニポポ」が網走でよく見られるのでしょうか?実は「ニポポ」は網走刑務所の受刑者の方々が制作を行っています

「ニポポ」が生まれた当時は網走刑務所の受刑者の仕事が少なく、網走博物館初代館長の考古民俗学研究家である米村喜男衛氏は何か受刑者たちのための仕事はないかと考えていました。

その時地域復興を考えていた、樺太研究家の高山長兵衛氏が「セワポロロ」の存在を知り、米村氏に「ニポポ」制作を提案したのが、「ニポポ」誕生のきっかけとなります。そしてそれからずっと現在に至るまで、「ニポポ」は網走刑務所の受刑者が一体ずつ手作り制作しています。

ニポポの材料


出典:写真AC

「ニポポ」には非常に縁起の良い木が材料として使われています。「ニポポ」の材料は、槐(エンジュ)という木になります。槐(エンジュ)は中国北部を原産とする落葉性の高木です。元々は薬木としており、その後は排気ガスなどにも強いということから、街路樹などにも使われるようになりました。

また、槐(エンジュ)には様々な使われ方があり、「延寿」とも書け、長寿や安産のお守りとしても使われたことがあります。そのことから、魔除け・長寿・安産・幸せの木として扱われるようになりました。槐(エンジュ)は仏壇などにも使われることもあり、お守りとして使われる「ニポポ」には非常に適した材料だと言えます。

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【花笠が彩る夏】山形花笠まつりのここにしかない魅力

山形花笠まつりとは

出典:写真AC

 山形花笠まつりは東北四大まつりの一つで、例年8月5日〜7日の3日間開催されます。 一般には、山形市のメインストリートで行われるパレードがよく知られています。

艶やかに飾られた蔵王大権現の山車を先頭に、花笠太鼓の音頭にのって、紅花をあしらった花笠を手にした踊り手が続く、華やかで躍動感に溢れるパレードです。 また、花笠まつりを盛り上げる『ミス花笠』の募集も行われ、歌手などのゲストも来場し、イベントや観光キャンペーンで街全体が盛り上がりを見せます。 


山形花笠まつり 2018年の日程・アクセスなど

開催日時: 2018年8月5日(日)〜8月7日(火)18時から21時半まで
     ※雨天決行

開催場所: 山形市十日町・本町・七日町通り(国道112号線)~文翔館前
※山形駅からパレードのスタート地点まで、徒歩約10分です 


山形花笠まつりの歴史

出典:写真AC

花笠まつりの起源は、昭和38年(1963年)に蔵王の観光開発とPRを目的に行われた「蔵王夏まつり」です。山形花笠まつりの一大イベント「花笠音頭パレード」はこの祭りの一イベントでしたが、昭和40年(1965)の第3回から独立して現在の「山形 花笠まつり」となり、今年で第56回を迎えます。

花笠まつりで踊られる花笠踊りは、昭和45年(1970年)の大阪万博で日本を代表する民族芸能の一つとして披露され、これをきっかけに全国的に知られるようになりました。 


山形花笠まつりの特徴・見どころ


花笠まつりの見どころは、何と言っても約13万人・約160団体が参加すると言われる花笠パレード。山形の花である紅花をあしらった笠を手に、グループごとに統一された艶やかな衣装に身を包んだ踊り手が、山形市のメインストリートに花を添えます。

また、祭りの期間中は「山形商工会議所」、「山形まなび館」、「山形まるごと館 紅の蔵」で花笠グッズの販売コーナーも設けられており、花笠もここで購入できます。

花笠まつり参加の心得は、

「<1> 花笠を持って踊ろう、<2> 花笠音頭に合わせて踊ろう、<3> みんなで楽しく踊ろう」と大変シンプルなものです。花笠を入手したら街に繰り出して、踊りを楽しみましょう。

花笠まつりで歌われる花笠音頭の特徴


花笠まつりで歌われる花笠音頭は、山形県の尾花沢市にある 徳良湖の築堤工事の「土突き唄」が元唄と言われています。 昭和13年(1938年)頃、有海桃洀が弟子と共に句を整え、伴奏や踊りの振りをつけ、民謡としました。

現在知られている「花笠音頭」(別名「花笠踊り唄」)の歌詞は、従来からある2つの歌詞に県内外から公募した歌詞を加えた15の歌詞で構成されています。

♪花の山形 紅葉の天童 雪を眺むる尾花沢 ♪温海岳から吹浦かけて 出羽の三山 夕涼み

このような風情ある歌詞で、最上川の流れに沿って、蔵王権現や温泉地、さくらんぼにりんご、花の名所、月山、鳥海山など、山形の行楽地 ・ 景勝地を巡ることができる歌になっています。

花笠まつりの中では、踊り手達の威勢の良い「ヤッショ、マカショ」の掛け声と花笠太鼓の勇壮な音頭とともに、祭りの夜を賑やかに彩ります。

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手水の作法や注意点、正しい読み方を紹介|神様の拝礼は礼儀正しく

手水の読み方

 皆さんは手水の読み方をご存知でしょうか。 神社やお寺に訪れた際に、参道の脇や社殿の脇にある手水舎で、手を洗います。 しかしそれを「手水」と呼び、それをどう読むのかを知る機会も中々ありませんよね。

「手水」は一般的に「チョウズ」「テミズ」と読まれます。 しかし、厳密に言うと「テミズ」が正しい読み方とされています。 その理由は、「テミズ」の転訛から、「チョウズ」に変化した為です。

伊勢神宮では、「手水舎」のことを「テミズシャ」と読んだりもします。 ただ、現代において「チョウズ」でも問題は無いので、どちらで読んでも構いません。

手水とは


出典:写真AC

まず疑問として生まれるのが「なぜ手水をするのか」ということですが、 手水は、神様にお参りする前に身体の穢れを落とすために必要な行為になります。 古くから、水は穢れを洗い流すものとされております。

昔の神職の方々は、川や海で「禊(みそぎ)」を行い、身と心の穢れを落としてからお参りをしていました。 ただ現代になるにつれて、「禊」を行える場所も減ったことや川が汚れてきたこともあり、従来の方法では難しくなってきました。

そのことから、「禊」を簡略化した「手水」を代わりに行うようになったと言われております。 それゆえ、手水の歴史は意外とそれほど長いものではないのですが、非常に重要な行為になります。 清める際に必要な作法や手順は、神様への礼儀において大切なものになるので、簡略化されたとは言え、正しいもので行う必要があります。

手水の正しい作法


出典:写真AC

それでは、手水の正しい作法を紹介していきます。 お参りに行って、その場になると「どの順番だっけ?」と思うこともあると思うので、是非お参りした時のことをイメージしながら、読んでみてください。

1.柄杓を右手で持って水をすくって、左手をすすぐ

2.柄杓を左手に持ち替えて、右手をすすぐ(ここまでで両手が洗えました)

3.柄杓を右手に持ち替えて、左手に水を溜めて口をすすぎます (このとき口元を隠して下に優しく水を捨てるのがマナーです)

4.左手を再度洗います

5.最後に柄杓を縦にして、柄の部分に水を流して洗い、元の場所に戻します

以上のような流れになります。 右手で持って始めればその後は流れを考えれば、スムーズに手水を行うことができます。 すくった水が少なかったり、手をすすぐのに水を使いすぎたりすると、最後に足りなくなってしまうので、注意しましょう。

水が余っても、最後の柄杓の柄を洗い流す際に使えば良いので、少し多めにすくうことをおすすめします。 手順に悩んだ際は、「手水舎の水は清いものであり、人の身体は汚れている」と考えればすすぐ順番などを思い出しやすいでしょう。

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【異国情緒溢れる染文様】更紗の歴史や日本の更紗を紹介

色彩鮮やかな更紗

更紗は、人や花、幾何学模様などを様々な色で染めた布のことです。インドからアジア、ヨーロッパなど世界各国へ伝わり、それぞれの地域で独自の発展を遂げていきました。その産地により、ジャワ更紗、ペルシャ更紗、和更紗などと呼ばれています。語源は、インド北西部の港「スラト」がなまったものだともいいます。

他にも、美しい布を意味するインド語の「サラサー」、綿布をあらわすオランダ語「サラサ」、さらにはポルトガルやジャワ島の言葉が元になっているなど、さまざまな説がありますが定まっていません。日本では、「佐良佐」や「紗良紗」と表記されていました。

江戸時代末期になると、現在の「更紗」と記されるようになります。他にも、シャム(現在のタイ)から輸入されていたため、「しゃむろ染」ともいわれていました。

更紗の特徴は、「木綿」に「染模様」を施したものだということです。しかし、和更紗のなかには友禅染のように絹を用いるものもあります。現在では、機械による片面捺染が主流となっています。

インド由来の更紗


出典:Wikimedia Commons

更紗の起源は、じつに3000年以上も前のインドだとされています。ローマ時代にはすでに、地中海まで輸出されていたことも分かっています。寺院やテントの掛け布、あるいは室内装飾などに多く用いられていました。

その文様は、インド神話やヒンドゥー教を題材にしたものが多く、地域によっても大きく異なっています。

このインド更紗が世界各地に伝わったことで、11~12世紀にはジャワ更紗が生まれました。しかし、このころの更紗はあまり残っておらず、現存する最古の更紗はエジプトのカイロ南部のフォスタットから見つかったもので、15世紀以前のものとされています。

やがて、17世紀になるとヨーロッパでも大きな影響が見られます。産業革命で大量生産された木綿には、インドの更紗を模したデザインが多く、「chintz」や「printedcotton」と呼ばれました。

こういった経緯から、現存する更紗の多くは18~19世紀のものに集中しています。

一方、ペルシアやタイ、ビルマなどのアジアでは、地方ごとにさまざまなデザインや技術が発展し、民芸品として伝わっていきました。

日本の更紗の歴史

出典:二葉苑

日本に更紗が輸入されるようになったのは、室町時代に行われていた、明との勘合貿易が始まりだといいます。

金襴や緞子などの高級な染織品と共に、当時の茶人に茶道具の入れ物として愛用されました。この時期の更紗は、「古渡り更紗」といわれ特に貴重なものとされています。

古くは染文様が多かった日本では、平安時代から織模様が主流となっていました。しかし、この更紗の渡来によって再び染文様が活発になります。これが、のちの友禅染の発展にもつながっているのです。

日本の更紗の最も古い記録は、1613年のにイギリス東インド会社の司令官ジョン・セーリスが記した『日本来航記』の贈答品のなかに見られます。

他にも、江戸時代初期にはポルトガルやオランダなどの貿易船が更紗を日本に輸出しました。江戸時代中期になると、それまで貴族や武家のみが扱っていた更紗が、庶民の間でも下着や帯、風呂敷、布団などに用いられるようになります。

それに合わせ、日本各地で江戸更紗や天草更紗、鍋島更紗のように模倣品が作られるようになります。大正時代末期には絹製品にも染められ、戦後になると異国風という意味だけでも用いられるようになりました。

日本の更紗を紹介①

江戸更紗


出典:二葉苑

江戸更紗は、江戸時代末期に広がった更紗です。その大きな特徴は、型染めを使用している点です。1つの模様を複数の型紙に分けて、何度も繰り返し摺り上げていきます。単純な柄なら数十枚、複雑なものになると数百枚以上もの型紙を使います。

このような技術が発達したのは、江戸の町には京友禅のような伝統がなかったからだと考えられています。また、江戸更紗はその独特の色合いも特徴のひとつです。これは、江戸の水がおもに硬水であるため、化学反応が原因で起こる現象です。

しかし、それが転じてかえって日本らしい侘び寂びを感じさせる色合いとなったのです。江戸時代に広まった和更紗は、残念ながらそのほとんどが伝統が途絶えてしまいました。

しかし、江戸更紗だけは今でも、タペストリーやインテリア、アクセサリーなどさまざまな分野に活かされ、世界的にも人気の染織品となっています。

日本の更紗を紹介②

天草更紗

もともと天草には、南蛮船貿易が活発だった安土桃山時代に更紗が伝わっていました。キリシタン弾圧のもと、十字架の文様が染められていたり、追放された西欧人の妻子が手紙を染めたものが、今でも残っています。天草更紗は、オランダや京の染色技術を学んだ金子為作と森伊衛門が、そんな更紗の地で1818年から始めたものです。

しかし、伝統はすぐに絶えてしまい、今では実際にどのような技法が行われていたのかよく分かっていません。その復興のために、中村初義という人物が中村染工場を創業しました。工芸展などへ更紗を出品し、昭和39年には熊本県から重要文化財として指定されます。

しかし、残念ながら昭和40年代半ばになると工場は閉鎖されました。再び、天草更紗の伝統は途絶えてしまいます。その後、2002年には市や文化協会の依頼を受けた染元の中村いすずによって、三たび平成の天草更紗として復活しています。

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【懐かしきあの頃を思い出す】独楽(こま)の種類と起源

独楽の起源

世界で最も古い独楽は、紀元前2000~1400年ごろのエジプトの遺跡から見つかっています。何となく日本の玩具というイメージがある独楽。意外なことに、実は同じようなものが古代ギリシャやインダス地方など、世界各国の遺跡で見つかっています。

もちろん、現在でも民芸品として世界中に独楽は存在しています。あまりに古くから広く分布しているため、詳しい起源は分かっていません。子供ならどんぐりからでも作れるような簡単なおもちゃなので、自然発生的に各地で生まれたものなのかもしれません。

日本には、朝鮮半島の高麗(こま)から伝わったといわれ、古くは「こまつくり」や「こまつぶり」と呼ばれていました。「つぶり」には、円いものという意味があります。その後、省略されて「こま」だけが残るようになりました。「独楽」というのは、中国語の「ひとりで楽しむもの」という言葉が当てられたものです。

日本における独楽の歴史


出店:写真AC

日本では、6世紀以降の平城京跡や藤原宮跡などから木製の独楽らしい出土品が見つかっています。ただし、実際に独楽として使用されていたかどうかは分かりません。はっきり独楽と分かるものが使用されていたのは、平安時代以降です。

独楽には神が宿るとされ、貴族の遊び以外にも、宮廷の儀式や占いにも用いられるようになりました。その後、南北朝時代になると太平記などに、庶民の子供たちが独楽で遊ぶ様子が描かれるようになります。江戸時代になると、経済の発展にともない、より広い地方まで独楽が伝わるようになります。

例えば、雪の上でも回せる北国の「ずぐりゴマ」や、回すと音の鳴る関西の「竹鳴りゴマ」、軸を鉄製にすることで回転数を増やした「博多ゴマ」など、様々な工夫を凝らした独楽が生まれました。

巻き貝に蝋や鉛を溶かし込んだ「バイゴマ」は、のちに金属製の「ベーゴマ」となって明治時代の子供たちの間で大流行します。昭和に入っても「けんかゴマ」などが駄菓子屋で売られ、男の子の遊びとして長い間定着した玩具となりました。

独楽の種類


出典:写真AC

独楽には、主にその形によっていくつかの種類があります。最も単純な方法として、指でひねって回すのが「ひねりゴマ」です。あまり長く回転させることはできないため、小型でシンプルなものが多くなっています。

独楽の上部に突き出した軸を、掌でこすって回転させるのが「手よりゴマ」です。回っている途中でも、こすって回転を加えられるのが特徴です。そのため、曲独楽にも多く用いられています。

手ではなく、道具を使って回すタイプの独楽もあります。その最も古い形が「ぶちゴマ」です。円筒形で、先が円錐形にとがった形をしています。その側面をムチなどで叩きながら、回転させます。このぶち独楽は、やがて紐を独楽の胴体に回して投げるタイプの「投げゴマ」に発展していきます。

ヨーロッパでは17世紀頃からこの投げゴマが主流となり、日本でも江戸時代中期からその多くが投げ独楽になっていきます。紐を使うタイプには、他にも軸に巻き付けて回転させる「巻きゴマ」があります。

縁起物としての独楽

出典:写真AC

独楽は古くから儀式や占いに用いられ、縁起の良いものとして扱われてきました。その理由は、独楽が回る様子を物事が上手く回っていくことに重ねていたからです。仕事やお金、また頭が回るというように、回ることはポジティブな意味合いを持っています。

また、軸がまっすぐ通っていることから、芯がある、筋を通す、といった強いイメージもあるようです。このようなイメージから、独楽は新年に縁起物として遊ばれるようになります。また、江戸時代には赤、黒、黄、緑、紫の五色に塗られた独楽が出回るようになります。

これらは江戸五色と呼ばれ、それぞれ、健康、力、富、豊作、高貴、という意味合いを持っています。他にも、佐世保独楽や肥後独楽などにも、同じように願いを込めた配色がなされています。現代でも、福岡県八女市のでは新築祝いや結婚祝いなどに、飾り独楽が贈られる風習があります。

また、関西地方で家を新築するときには、一家の繁栄を願って一対の独楽を梁に飾ります。このように、縁起物としての独楽は古くから受け継がれている伝統の1つなのです。

【日本を代表するブランド梅】南高梅の歴史や美味しい食べ方

南高梅とは?

南高梅とは梅の品種の一つで、和歌山県みなべ町が生産地としては有名です。そもそも和歌山県は梅の生産地として有名ですが、みなべ町の梅の生産は、梅栽培面積の約7割が南高梅となっています。

果実は梅の中でも最高級品とされていて、2006年には地域ブランドとして認定されています。ちなみに「なんこうばい」と呼ばれる事もありますが、生産農家や選産地の人は「なんこううめ」と読み、こちらが正式な読み方となっています。 

南高梅の特徴


出典:写真AC

南高梅は味や食感などが他の梅よりも良いとされていますが、1番の特徴としては果肉が柔らかいために非常に潰れやすいところにあります。また、果実は非常に大きく、種は果実のわり小ぶりとなっているので、果肉が厚いところも特徴です。

南高梅の代表商品でもある梅干しは、口にしてみるとねっとりとした重厚感のある肉厚な梅肉の感触を味わうことができます。そういった特徴から最近では、結婚式の引き出物やお歳暮など、贈り物としても選ばれることが多く見受けられるようになりました。 

南高梅の歴史


出典:写真AC

南高梅の歴史は古く、その誕生は江戸時代まで遡ります。江戸時代に安藤直次は、自身が所有していたみなべ町の土地が、栄養が乏しく作物が全く育たなかったため、山に自生していた「藪梅」を民衆に育てさせました。これを要因として、この地域の梅の生産を盛んにすることとなりました。

明治35年に高田貞楠が所有する桑畑は土地に栄養がなかったため、梅畑に変えようと種となる梅を譲り受けた際に、一際大粒な梅の種を見つけ大切に育てたものが高田梅の原木となりました。

昭和25年には「梅優良母樹種選定会」を立ち上げ、5年間にわたり調査を行った結果、梅優良母樹種選定の候補に挙がった37種類の梅の中かから最優良品種を決めることとなりました。

この時に選出された梅に対して、原木を生産した高田貞楠の「高」の字と、調査に尽力した南部高校関係者に感謝の意を表し「南高梅」と名付けられることとなったわけです。

南高梅の梅干

南高梅は中国産を主原料としている市販の梅干しに比べると市場販売価格は2倍以上の差があることが多いです。これは南高梅の特徴である、柔らかく肉厚な果実が要因となり機械での梅干し生産作業を困難にしているためです。

南高梅の生産地で和歌山県みなべ町に訪れると、多くの店舗が点在しています。一粒3,000円するA級品とよばれる高級な一品から手ごろな価格帯の商品あで色々な種類があります。また、インターネットショッピングなどでも取り扱っている店舗が多数ありますので、自分に合わせた1品を選ぶことが出来ます。 

南高梅の美味しい食べ方


出典:写真AC

南高梅は果実が非常に大きく果肉が厚くて柔らかいので、なんといっても一番の食べ方は「そのまま」となります。温かいご飯と合わせるのはもちろんのこと、お弁当にいれても良いですし、おにぎりの具材にしても食べ応えがあり満足感が違います。

それ以外ですと、うどんにシソの葉と合わせて調理する梅うどんなどもさっぱりとして人気があります。また、洋風のパスタに合わせることで、柔らかい果実が麺に良く絡むみ、より一層美味しく召し上がることができます。

南高梅の梅肉を豚肉で巻いて衣をつけて油で揚げてトンカツのようにするのも定番の調理方法と言えます。さらに、梅酒にしてもお芳醇な香りが味わえますし、梅ジャムとして使っても美味しく召し上がることができます。 

【梅の花言葉】日本人美意識のルーツ「梅」その魅力や花言葉を紹介

長い時間を経てブランド梅に成長した南高梅

和歌山県みなべ町で生まれ育った南高梅は、長い歴史を経て今では日本を代表するブランド梅まで成長するまでになりました。梅干しは食事として日常から触れることが出来る日本の伝統的文化の一つです。南高梅の歴史を知り、その情熱を感じるながら食べると、また違った味が感じられるかもしれません。 

【アスリートは食べるべし!】大根おろしで味わう「からみ餅」の効用を紹介

からみ餅とは

出典:写真AC

からみ餅は一般的にはつきたての餅に大根おろしとしょうゆを絡めたものをいいますかつお節や海苔、唐辛子ねぎなどを加えることもあり、「おろし」と呼ばれることもあります

地方によってはからみ餅はかつて赤ちゃんの歯固めとしても用いられていたといわれています

からみ餅の効用


出典:写真AC

餅は雑煮などで正月に食べることが多い食べ物ですが激しい運動を行うアスリートにとっては絶好のエネルギー源といえます餅には運動中のエネルギー源となる糖質が豊富に含まれていて同じ100gで比較した場合白米の糖質が37.1gに対し餅には50.3gもの糖質が含まれています

つまり餅のほうが実に35%も多くの糖質を含んでいるのです中でもマラソンやトライアスロンといった持久力が必要となる競技においては効率的な糖質の摂取が重要なので餅は効率的にエネルギーを補給できる食材といえます

また陸上の短距離種目や幅跳びウエイトリフティングといった瞬発力や大きな筋力を必要とする競技でも適度な糖質は欠かすことのできない栄養素ですこうした短時間で行われる競技でも同じ動作を繰り返し続けるにはエネルギー源として糖質が必要になるからです

しかしながら実際の試合前になると緊張して食べ物が喉を通らなくなるというアスリートも見かけられますそんな時おすすめなのがからみ餅ですご飯を茶碗1杯は食べられなくても餅なら食べられるという方は少なくありません

特にからみ餅の大根おろしはデンプンを分解するアミラーゼという消化酵素が多く含まれているので消化を助けより早くエネルギーに変えることができます

一方普段の食生活では餅には多くの糖質が含まれまたあんこや砂糖醤油といった甘いものとの組み合わせが多いためカロリーの過剰摂取や血糖値の急激な上昇を招きますが大根おろしであれば100gで18kcal程度のエネルギーなのでカロリーの過剰摂取を抑制できます

加えて大根おろしには食物繊維が豊富に含まれているので血糖値の急激な上昇も抑えられますまた大根おろしに含まれるイソチオシアネートという辛味成分は血液をサラサラにしたり抗酸化作用もあるので美肌効果が期待できます

このイソチオシアネートは大根をおろしたときに作られ加熱すると壊れてしまう成分なのでイソチオシアネートを摂取するにはからみ餅は最適といえるでしょう

からみ餅の作り方


出典:写真AC

からみ餅の作り方は簡単です家庭で手軽に作るにはまずラップをかけた餅を電子レンジで加熱しますこのとき餅が溶けてしまわないよう加熱しすぎに注意しましょう

そこへすりおろした大根と醤油お好みで青ネギやかつお節を絡め七味唐辛子を振ってからみ餅のできあがりです辛いものが苦手な場合は七味の代わりに砂糖を使ったり醤油の代わりにポン酢や白だしを使ってもよいでしょう

元祖からみ餅のお店を紹介

静岡県静岡市葵区弥勒には名物の安倍川もち」を売る店が軒を連ねています安倍川もちは餅にきな粉をまぶしたものですがかつては砂糖が貴重で駿河特産の白砂糖を乗せたことで評判となりました

この安倍川もちを売る店の中に文化元年1804年創業の石部屋せきべや)がありますもちろん安倍川もちも提供されていますがからみ餅も名物として知られています

石部屋のからみ餅はもともと酒の肴として提供されていたもので大根おろしではなく静岡名産の生山葵と醤油を絡めて頂きます現在は酒は提供されておらず持ち帰りの商品もありませんがこの味目当てで訪れる客も絶えない逸品となっています

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朝食のメニューにも最適なからみ餅

いかがでしたでしょうか。このように雑煮や甘い味付け以外で家庭で手軽に作るにはからみ餅は最適です消化が良くエネルギーに変わりやすく体温を上げる効果もあるのでスポーツ以外でも朝食のメニューなどにしてみてはいかがでしょうか

【100年続く三大花火大会の1つ】土浦花火大会の2018年日程と魅力

土浦花火大会とは?

通称、土浦花火大会と呼ばれる「土浦全国花火競技大会」は、茨城県土浦市で開催される花火の競技大会で、現在はその素晴らしい競技を一目見ようと全国から観光客が押し寄せるようになり、親しみやすい「土浦花火大会」と呼ばれるようになりました。

この土浦花火大会は、日本煙火協会などが後援する日本三大花火大会の一つで、スターマインの部、10号玉の部、創造花火の部の3部門に分かれて盛大な競技が披露されます。最高賞に選ばれると内閣総理大臣賞が授与されます。

土浦花火大会は日本三大花火大会の中では唯一、大都市圏で開催され、交通の便も良いことから毎年約80万人もの観光客が押し寄せます。

土浦花火大会 2018年の日程・アクセスなど


出典:写真AC

今年2018年は、10月6日(土曜日)に開催される予定で、約2万発もの花火が打ち上げられます。悪天候の場合は翌週の土曜日か日曜日、体育の日で祝日な月曜日に延期されます。打ち上げ時間は午後6時から午後8時30分までの2時間半で、茨城県土浦市桜川畔が会場となっています。

電車で会場の桜川畔まで行く場合は、JR常盤線の土山駅で下車し、そこから徒歩で向かうか、有料ですがシャトルバスに乗って会場まで行くことが可能になっています。

自動車で向かい会場付近に車を停めておきたい場合は相当な混雑が予想されるので、朝から昼までの間に土浦や会場付近に到着し駐車しておくことをおススメします。

土浦花火大会の歴史

土浦花火大会は1925年、霧ヶ浦海軍空軍隊と親交が深かった新治群津市浦町の神龍寺というお寺の24代目住職が、自身の財産を投じて航空戦死者を悼むための花火大会を行ったのが土浦花火大会の始まりだとされています。

当初は霧ヶ浦湖畔の埋め立て地で9月に開催されていましたが、第二次世界大戦による中断や、住職の財産がなくなったことと同時に中止が検討されましたが、その当時、日本煙火工業界の会長を務めていた北島義一が、大会の運営に全力を尽くしたことによって大会は中止されませんでした。

土浦全国花火競技大会は、大会自体の名称や日程が変わっても約90年、現在まで受け継がれている土浦の伝統文化です。

土浦花火大会の特徴・見どころ


出典:写真AC

各3部門に分かれて競い合われる、土浦の花火の特徴は、大きさとその迫力です。スターマインの部ではワイドスターマイン、10号玉の部では圧倒的な超巨大さと音が特徴10号玉、創造花火の部では創造性が強く、最新の今までには見たことがないような花火が、各部門の特徴になっています。

見どころは何といってもフィナーレです。「爆風や音で押し倒されてしまう。」と感じてしまうほどの豪勢なフィナーレは見逃せません。

土浦花火大会の座席情報

約二万発の花火が打ちあがり、1000店以上もの屋台が開店する土浦花火大会のチケットは1人当たりの値段ではなく、3人までのマス、6人までのマスの値で販売されています。

購入方法は電話、インターネットで申し込むか窓口で直接購入するかの2パターンで、1.7m×1.7mの6人まで入場可能なマスは19000円、1.7m×0.85mの3人まで入場可能なマスは9500円となっています。

土浦花火大会の駐車場情報や混雑情報


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開催当日は電車の車両が増やされ、交通規制も行われますが、花火が始まる1時間2時間前になると場所取りや立ち見客などの影響で相当な混雑が起きてしまいます。

規制は道路だけではなく、各駅でも混雑による駅への入場規制が行われるのでなるべく朝早いうちに会場付近で待機しておきましょう。

また、花火が終わった直前も大変な混雑が起きるので、歩行者道路への一次規制や電車ホームへの入場規制などが行われ、自動車はある程度混雑が収まるまで車を動かすことはできません。駐車場は会場周辺に複数ありますが、開催当日の昼までにはほぼ埋まってしまいます。

帰りの混雑は、会場付近に自宅があっても、帰宅まで1時間2時間かかってしまうこともあるほどの状況になってしまいます。

また、花火が終わる1時間早く駅に向かっても、切符を買うことすらできないような混雑が起きる状況もあるので、花火を最後まで見てある程度時間が経ってから会場を出た方が比較的スムーズに帰宅することが可能です。

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【子供の成長を願う】お食い初めの定番メニュー7選と意味

子供のための特別なメニューを用意するお食い初め

 お食い初めは、七五三のように子どもの成長の節目にお祝いと祈願をする風習で、生後100日目を迎えた新生児に「一生食べ物で困ることが無いように」という願いを込めて、縁起を担いだ食べ物を用意して食事の「真似」をさせる行事です。

離乳食への切り替え時期を目安に行い、日本の他に中国や韓国、ヨーロッパの一部地域でもお食い初めに似た風習があります。各国や地域ごとに目的には細かな差異がありますが、基本として子どもが「はじめて食事をすること」を大切に考えて行われています。

日本では、献立の基本である一汁三菜をベースとしたメニューにします。主なやり方については、ご飯とおかずとお吸い物で食べる順番を考えます。 基本的な流れは、以下の通りです。

ご飯/お吸い物/ご飯/魚/ご飯/お吸い物/ご飯/煮物/ご飯/お吸い物/ ご飯/酢の物/ご飯/お吸い物/ご飯/歯固め石/ご飯/お吸い物

このように、ご飯からスタートしてお吸い物、ご飯に戻って魚、またご飯、次にお吸い物、ご飯、煮物……といった具合にご飯とお吸い物の間におかずを挟んで行います。また、お食い初めに使う食器も、男の子は赤色、女の子は黒色、という風に決まっています。

もともとは柔らかくしたお餅だった!お食い初めのメニュー


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別名「百日祝い」とも言い、100日目のお祝いに一生の食べ初めという意味でお食い初めと呼ばれています。このメニューでは他に儀式に使う石から「歯固め」、初めて箸を使うので「箸揃え」、初めて魚を食べるので「真魚始め」など、呼び方は地域ごとに異なります。

お食い初めの始まりは平安時代であるとされ、50日目に行う「五十日祝い」と呼ばれる行事がその原形です。これは、重湯でやわらかくした五十日餅というお餅を赤ちゃんの口に含ませるというものです。その後、鎌倉時代にお食い初めで、魚がメニューに追加され食べさせるようになりました。

100日目にお祝いするという風習になったのもこの頃からです。それから室町時代にはもう一般的な習わしとなっていたようで、以降は現在まで伝統行事として我が子の健康と幸せを願う人々の間で続けられてきました。

お食い初めのメニュー①


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お食い初めに使う魚は、尾頭付きの鯛を丸ごと一匹、塩焼きにしたものです。 他に出世魚を使う地域もありますが、いずれの場合も頭と尾を付けたままの状態で調理したものとなり、これをメインメニューとして大皿で出します。

家庭で用意することが難しい場合は、スーパーの鮮魚コーナーなどでメニューを見ながら、お食い初めに使う旨を伝えて、注文するという手もあります。 日本では古くから、縁起物として尾頭付きの魚がお祝いの膳に供されてきました。

祭事のとき献供物として、まだ刃の入っていない魚が神様へ捧げられていたことが始まりであり、当時の一般家庭では冷蔵保存が難しいことも相まって、尾頭付きの魚は大変貴重な品でした。

特に鯛は、食べる機会の少ない高級魚であること、その赤い体色や「めでたい」の語呂合わせなどもあって、今日までお食い初め以外にも結婚や還暦などのお祝い事には欠かせない魚です。また、頭から尾まできれいに食べることで、「ひとつの物事を初めから最後までやり遂げる」という意味もあります。

余談ですが、日本では尾頭付きの魚を盛り付けるときには、頭を左側にして皿に乗せるのがマナーとなっています。もし自分で盛り付けをするのであれば、配膳の礼法にも注意しましょう。