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気になる職業「プロダクトデザイナー」とは?年収・適性を大公開!

プロダクトデザイナーという仕事をご存知でしょうか?私たちの目の前にあるモノの多くをデザインする、ヒットメーカーの一人です。

今回は、プロダクトデザイナーの仕事内容や年収、なり方、需要の有無、どんな人が向いているのかなどをお伝えします。

プロダクトデザイナーとは


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プロダクトデザイナーとは、私たちの生活の中にあるさまざまなモノのデザインをする仕事です。身近な商品でいうと、キッチン用品や文具、おもちゃ、ファッション小物、商品パッケージ、PC、家電、自動車など。また、飛行機や船舶などの重工業製品までをデザインし、幅広い分野での活躍が期待できます。

プロダクトデザイナーの仕事内容


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プロダクトデザイナーの仕事は、デザインを依頼するクライアントからの受注によってスタートします。依頼された商品をより販促しやすく人気のあるものにするため、デザインにとりかかる前の市場調査や企画開発は欠かせません。コンセプトを決めることや特許取得が可能かどうかの調査も含まれます。

デザインに取り掛かる際に必要なツールは、PhotoshopやIllustrator、2D・3DCADなどがあります。ラフ画を何枚も用意して、クライアントとの調整を繰り返していきますよ。デザインは見た目(形)だけでなく、材質や機能性との兼ね合いなど、バランスを考えて行います。商品化されるまでに、設計士や技術者との綿密な打ち合わせや修正があり、根気が必要な職業でもあります。

プロダクトデザイナーの年収・給料


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企業内にデザイン部署があるメーカーは大手が多く、実績がまだない状態からでも、安定した収入を得ながら経験を積めます。新入社員の収入は約280万前後、勤続年数が長くなれば800万前後も可能といわれています。

一方、制作会社では基本収入が下がり気味。平均年収は450万とされていますが、大ヒットがでれば自身の成果となり、ビックな報酬も夢ではありません。順調にいけばフリーランスとして活躍できる道もあります。

400年もの歴史を持つ「高岡銅器」|二宮金次郎との深い関わりも

高岡銅器の歴史


高岡銅器の起源はおよそ400年前に遡ります。当時の加賀藩主、前田利長が高岡城を築城するのに伴って、城下町の繁栄を図り、1611年、砺波(となみ)郡西部金屋村から7人の鋳造師を現在の高岡市金屋町へ呼び寄せ、鋳物工場を開設しました。

当初は主に鉄鋳物の生産に携わり、鍋などの日用品や鍬などの農具といった生活に欠かせない物を作っていましたが、江戸中期に入り生活・文化の向上に伴って、唐金(青銅)鋳物の需要が増加しました。

とりわけ仏具は寺社仏閣に限らず一般家庭でも広く求められ、高岡銅器がより普及していきました。明治・大正期に入ると、高岡銅器は美術品としても全国的に台頭していきます。高岡の花器や置物などは贈り物としても重宝され、大きく成長していきました。

また、廃刀令によって職を失った刀の細工師たちを高岡に呼び寄せ、新たな試みとして銅器に高度な技術の彫金を施した製品を世に送り出しています。これらの製品は1873年のウィーン万博にも出品され、大好評を博しました。一方で、大型銅像の制作も徐々に需要が増えていき、高岡銅器の一大部門として成長を遂げました。

代表的なものに、地元高岡市にある大佛寺の高岡大仏などがあります。今日、日本における銅器生産額で高岡銅器が占める割合は95%にも上ります。巨大な梵鐘から小さな茶器までを繊細に作り分けるその多彩な鋳造技術は、全国的に知れ渡っています。

高岡銅器の特徴

高岡銅器の特徴は自由かつ繊細な造形であり、しなやかなしっとりとした鋳肌です。時の経過とともに表情や感触に深みが生まれることから、人とともに成熟していく工芸品だと言われています。

高岡銅器の製造工程は、まず原型を作り、それから鋳造、そして仕上げ加工を経て着色・彫金を施すという過程を辿ります。研磨、彫金、象嵌といった加工技術、そして鋳造の技術が高次で融合され、高岡銅器に豊かな表現力を生み出しています。

高岡銅器に関わる職人

先に述べた製造工程において、高岡銅器では鋳造、仕上げ加工、着色といった工程ごとにそれぞれの職人が独立して作業を行う分業制を採用しています。

鋳造工程においては、職人は生型鋳造法、双型鋳造法、蝋型鋳造法、焼型鋳造法といった4つの技法を使っています。中でも主力となっているのが生型鋳造法で、木製または金属製の上下枠に原型を入れ、さらに砂を入れて押し固めたものを鋳型として鋳造を行う技法です。

1つの原型から複数の製品を作れることや、使った砂は繰り返し使用できることなどの利点があり、この技法が主力となって高岡銅器を発展させてきました。仕上げ加工には表面加工と彫金があり、いずれも高岡銅器を特徴づける技法です。

表面加工工程では、研磨を行って金属の持つ多彩な表情を引き出したり、象嵌によって他の金属を埋め込んだり、酸の腐食作用を利用して模様をつけたりといった作業を行います。

また彫金工程では、タガネを使い分けて高岡銅器の優美な模様を施します。そして着色工程において、高岡銅器の最終的な表情が決定することになります。

銅器は「錆を鑑賞する工芸」とも言われ、職人たちは古くから伝わる様々な素材や薬品を用いて金属を腐食させることで、銅の持つ本来の美しさ、鮮やかな色彩を引き出すのです。

二宮金次郎像と高岡銅器の関係について

日本地図を作った偉人「伊能忠敬」とは|作った理由・作り方・伝説

日本地図を作った伊能忠敬とは


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伊能忠敬は日本の偉人の一人であり、精密な日本地図を作ったことで有名な人物です。

また、伊能忠敬が測量を学んだのは、かなり晩年になってからであり、まさに大器晩成を体現する人物としても有名です。

元々伊能忠敬は、名主の家に生まれ、奉行所からも一目置かれるような人物であり、優秀なために隠居願いが何回も却下されるほど有能な人でした。

いざ50歳で江戸に行き、暦学と天文学、測量などを学びました。そして伊能忠敬が素晴らしいのは、19歳年下の高橋至時に弟子入りして、どんな場でも師弟の礼を守ったとされています。

年上が偉い、という儒学の影響を強く受けていた当時において、非常に謙虚誠実な態度であり、学ぶ姿勢と共に伊能忠敬は高く評価されて、最終的に日本地図を作る人として選ばれた、ということです。

実は最初に測量を始めるときのリーダーは当然、師である高橋至時であり、伊能忠敬は随員の一人だったのです。但し、測量の能力、学識、財力なども含めて、高齢が懸念されつつも外せない人材である、という高い評価を受けていたことは確かです。

伊能忠敬が日本地図を作った理由


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伊能忠敬が測量を始めた理由というのは、学んだ学問の一つであった、ということであり、元々は名主であり、土地の測量などの最低限の知識があったから、というのも一つになります。

そして江戸に出て暦学を学ぶことによって、付随して測量の知識も、となったわけです。肝心の日本地図を作る、ということの理由ですが、暦学のほうで正確なことが当時の測量地図ではわからなかったからです。

暦をより正確な物とするためには、地球の大きさから、日本各地の経度・緯度がわからないと作れない、ということに気づいたのです。よって日本の正確な形を知りたい、ということがメインではなく、あくまで暦の算出のために日本の正確な地図が必要であった、ということが実は動機になっています。

折しも、当時、北方から帝政ロシアの圧力が強まっており、蝦夷地(現・北海道)の地図を作り、備えておこうということになり、それに名乗りを挙げたのです。

当初、船で一気に北に行く計画が幕府側から提示されたのですが、それでも蝦夷まで行く途中の測量ができない、ということで陸路を提案しています。

ですから、よくある認識としてまず蝦夷地の測量を任されたから日本地図を作る切欠になった、というのは間違いであり、元々、暦を作るために地図が作りたい状態だった時に、丁度良く蝦夷の測量の機会があったので、それに乗ったと言うのが真実になります。

最終的には幕府の命令として日本地図を作るに至るわけですし、命令があったからというのは確かなのですが本人としては始めの作りたいと考えた切欠は間違いなく、正確な暦のため、となっています。

伊能忠敬の日本地図作成方法


出典:写真AC

伊能忠敬の測量方法は決して先進的でも画期的なものでもなく、当時としても普通に行われていたものではありました。

目印と目印の間の距離を歩いて測るというものであり、当然、徒歩になりますから、1歩を正確に69cmで歩くという訓練をして、ほぼ正確にその歩幅で歩くことをひたすらに繰り返したわけです。

距離と方角の測量をただただ繰り返して正確な地図を作ったわけです。その距離は4万kmを少なくとも超えており、これは地球一周分に相当するのです。老齢の伊能忠敬がそれだけの距離を歩いて日本地図を作った、ということがまさに偉人と称えられる理由でもあるのです。

伊能忠敬が作る前の日本地図


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行基図

そもそも伊能忠敬が作る前にはどんな地図を使っていたのか、ということになりますがその一つが行基図と呼ばれるものです。これはあくまで一説ですが奈良時代の行基という人物が作ったとされている地図です。

ただし、あくまで今現在も含めて行基図が元になったとされている地図はあるのですが、当時のものが現存していないので、元がどんな形であったのかというのは不明です。

しかし、この地図が後々まで日本地図の原型となっており、おおよそ日本の形に見えるようにはなっていました。

ちなみに、蝦夷地(北海道)はないタイプの地図になります。

改正日本輿地路程全図


出典:ウィキメディア・コモンズ

伊能忠敬以前の日本地図としては、改正日本輿地路程全図も有名なものになります。

これは長久保赤水という人が作ったものであり、漢学者・詩人でもあった赤水は地理学にも傾倒しており、この地図は後に「赤水図」と呼ばれて旅人たちなどに愛されました。

伊能忠敬が作った物は通称「伊能図」とも言うのですが、長く国家機密であったので江戸時代で最も有名であったのは、広く普及した赤水図のほうになります。

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お盆の時期はいつ?|地域による違いや迎え火と送り火の時期も紹介

お盆には先祖や亡くなった人が浄土からこの地に戻ってくる言われており、先祖の霊や亡くなった方をお迎えし供養する期間のことをいいます。お盆は正式には「盂蘭盆(うらぼん)」といい、サンスクリット語の「ウランバナ」を漢字に当てはめて読まれた言葉です。

お盆は、帰ってくる先祖の霊を迎えもてなすための行事で、各家庭で大切にされています。よくお盆には「旧暦」があるなどと聞きますが、そもそもお盆の風習はいつからできたのでしょうか。

お盆のルーツといっしょに、墓参り、供え物、お寺さんへのお布施など、気になるお盆のあれこれを解説します。

お盆の時期は旧暦と新暦がある?


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お盆の時期には旧暦と新暦があるって知っていますか?お盆の時期はもともと7月15日前後になっており、これは太陰暦のカレンダーによる「旧暦」による時期でした。

しかし、現在のカレンダーは太陽暦に改変されていて、それによるお盆の時期が「新暦」となっているのです。

大まかな新暦の解釈は、「旧暦+1か月」と記憶しておけば良いでしょう。

また、お盆は地域によって時期が異なります。大まかに説明すると、「8月13日~15日」の時期が全国各地でのスタンダードなお盆、「7月13日~15日」の時期は南関東、静岡、金沢、函館のお盆、「8月20日前後」の時期が沖縄県、奄美付近のお盆です。

こうして地域によってお盆の時期が異なるのは、旧暦から新暦に変わった時の状況や漁業・農作業などのその土地に関する時期を優先し調整したなどの理由があります。

お盆にはどんな意味があるのか

お盆の時期になると「先祖の霊が帰ってくる」と言われています。「家族や子孫の元に帰ってきた霊を快くお出迎えして、再び供養してあげる」という意味がこもっている行事なのです。

お盆はいつから始まったのか?お盆の歴史を紹介

日本で初めてお盆が実施されたのは、朝廷の時代と言われています。

もともとお盆は、上流階級の催し物として実施されてきました。江戸時代になると、一般層にも普及するようになりました。お盆が一般層に普及した理由は、蝋燭や仏壇といった、お盆に必要なアイテムが安く購入できるようになったからとされています。

お盆にはお墓参りも欠かさずに!


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お墓参りすることで「時期の節目」を大事にしてきた日本ですが、それは、お盆も例外ではありません。お盆は、一年の中でお墓参りするする人が一番多い時期と言われています。それは、「亡くなった人を迎え入れるのは、お墓参りから」とされているからです。

お盆の墓参りは、ただ参るだけではなくて、墓の掃除もしてあげてください。綺麗に磨いて、水をかけて、お供え物をして、お花を添えます。ここまでもてなしてあげて、初めてお盆にふさわしいお墓参りと言えるのです。

こけしは玩具(おもちゃ)?|できた理由・作り方・こけしスポット

皆さんは普段の日常生活の中で日本の文化を感じることはありますか?

実はあなたの家にも身近な伝統工芸品が近くにあるかもしれません。例えば「こけし」です。

お土産品としても「こけし」は、海外からの旅行客からも人気があるものなんです。今回はそんな「こけし」の由来を紹介します。

こけしとは


出典:写真AC

「こけし」は日本の伝統文化の一つです。その形はとってもシンプルで球形の頭部と円柱の胴だけという姿をしています。どこか懐かしさを感じてしまいます。

伝統的な「こけし」は産地によって違いがあり、独特な表情模様、そして胴の形などにそれぞれ特徴があり、違いがあります。シンプルイズザベスト、じっと見ているとなんだかかわいく見えてきませんか?

こけしの由来


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こけしはもともとは木製玩具であり、東北地方の温泉地の土産品として売られるようになりましたが、現在では東北に限らず全国各地で土産品として扱われています。その由来は諸説ありますが、江戸時代の終わりの頃に誕生したとされています。

当時の日本は国民の約9割が農民でした。「こけし」が東北地方から登場した由来は、寒い東北地方の人たちとって湯治(とうじ)が非常に大事な行事だったことに由来があります。湯治(とうじ)とは、厳しい農作業の疲れを癒し、農民同士の親睦を深める為のイベントであり、年中行事のひとつでもありました。

真冬の最も寒い時期の「寒湯治」、田植えが終わった後の「泥落とし湯治」、夏の暑い時期の「土用の丑湯治」など、年に2、3回は湯治を行い気分転換をする習慣が次第に根づいていき、その湯治客の土産として定着していく中で「こけし」が誕生したのが由来です。

当初の「こけし」の役割は、「おもちゃ」でした。小さい女の子がおままごと遊びをする時の玩具として使われていたのです。おもちゃとしての用途は明治時代の終わり頃まで続いていきます。その後時代が変わり大正時代になると、おもちゃ自体の材質も木材以外の様々なものが扱われるようになり、おもちゃとしての「こけし」から、他のものへと移っていったのです。

こどものおもちゃとしての役割を保つ一方、大人の鑑賞物やコレクションとしての需要が増していきました。そのような背景から「おもちゃ」から「鑑賞物」へとその役割を変えることになったのです。

有名なこけしの産地

全国的に有名な「こけし」の産地として宮城県大崎市の鳴子が有名です。「こけしのふるさと」としても知られており、鳴子の伝統こけしは東北有数の温泉郷・鳴子を中心として発展してきた背景があります。

古くから鳴子温泉では、漆器類などの木地業が盛んに行われてきました。そのことから「こけし」が盛んに作られるようになったのです。鳴子温泉の中心街は「こけし通り」と名付けられていて、狭い道沿いには温泉宿とみやげ物屋が軒を連ねており、日本らしい情緒ある風情ある温泉街になっています。

歴史と伝統が息づいた鳴子の工芸品として、「鳴子こけし」は有名なのです。

こけしの作り方

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「こけし」はいったいどのような工程を経て作られるのでしょうか?ここでは簡単に「こけし」の作り方を説明していきます。

1.材料となる木材の準備材料となる原木の乾燥から行います。木の皮をむいて6ケ月から1年の間に渡って自然乾燥させます。

2.「玉切り」という作業を行います。サイズに合わせて原木を切る作業です。

3.「木取り」という作業を行います。木の余分な部分を切り取っていく作業です。

4.「荒挽き」、「頭挽き」、「胴挽き」という作業を行います。ろくろを回転させて頭の部分、胴の部分を鉋で削っていきます。ここで「こけし」の姿が見え始めます。

5.「磨き」という作業を行います。サンドペーパー、とくさなどで磨いていきます。

6.さし込み、はめ込みを行います。胴や頭をたたき込む作業です。

7.描彩顔や胴の絵柄を描いていきます。

8.仕上げ最後に仕上げの作業としてロウをひく作業をします。以上で「こけし」が完成となります。

こけしの魅力


出典:写真AC

素朴で可憐な表情を見せる「こけし」。その歴史には奥深い由来があります。日本の伝統工芸品として、どこか温もりを感じ懐かしさも感じてしまいます。

そんな魅力ある「こけし」の体験教室など行われているところもあります。自分だけの可愛い「こけし」を作ってみるときっと愛着がわきますよ。興味のある人はぜひリサーチしてみてください。

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木地師の仕事を紹介|気になる将来性やなり方は?

木地師とは

木地師とは木工品を作る職人であり、轆轤(ろくろ)を用いて、椀や盆などを作ります。別名で轆轤師とも呼ばれることもあります。

主として、木材が豊富である地域に、木地師が集まる集落がありました。轆轤に固定させて木を削っていき、目的とするものの形に整えていくという作業をします。

木地師の仕事

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木地師の主な仕事は、昔も今も日用品となるものの加工になります。

通常は椀や盆、時に壺なども生産しています。一つ一つ手作りになるので、大量生産ができるような生産体制ではないのですが、木の温かみがある製品を作ることにやりがいを感じる人は多いです。

削る木は、伐採してきたものを使っても乾いておらず、ヒビが入ることは間違いないので乾燥させてから、ということになります。期間にして早くて3ヶ月、木によっては数年乾燥させてから使用されることもあります。

当然、その木の種類によって加工の難易度なども違い、そこが木地師の腕の見せ所ということになります。基本的には同じようなものを作るわけですが、やはり職人によって細かくできふできが出て来るものであり、そこがある意味では仕事の魅力であるともいえる部分となっています。

木地師の年収

木地師の年収は人によって違いますが、決して高給ではありません。

しかし、会社に勤めているのであれば、一般的な平均年収ほどは稼ぐことができます。

勤務体系としては、会社に所属する場合、普通のサラリーマンと同じような労働時間となるでしょう。福利厚生も会社組織に属して、労働時間が正規雇用並みであれば、厚生年金などに加入することはできます。

木地師のメリット、デメリット

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木地師のメリットは、自分で物を作る喜びを得られることでしょう。

もう一つは木製品という形で、自分なりの美学で作られた物を世に出すことができる点です。そしてこれが一番肝心なのですが、腕があれば一生物であり、それで独立をすることも目指せる点になります。

よくない点はあるのか、といえばまずこれから拡大するような業界ではない、という一点があります。もう一つは素晴らしい腕前でもそこまで稼ぐことができないという点もそうでしょう。そして最後が木材を多く保管しておく必要があるので、仕事は基本的に森に囲まれた場所にある、ということが多い点です。

少なくとも都心部に大きく居を構えてやるような仕事ではない、ということになります。

木地師に向いている人

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木地師にはどんな人が向いているのかといえば、黙々と何か作業をすることが得意な人、手先が器用な人、何かを創り、誰かに使ってもらうことに喜びを見出すことができる人になります。

向いていない性質の人といえば、地道に微調整を繰り返すような作業が嫌いな人、人とよく話し、コミュ二ケーションの中で仕事を発展させていきたい人などです。話すことがないわけではないですし、営業的なノウハウも必要にはなりますが、そちら方面が得意な人が向いている職ではないかもしれません。

木地師の将来性

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将来性は、決して爆発的な発展が見込める業界ではないですが木地師の需要がなくなるわけはなく、腕次第でいくらでも売れる物を作れるようになるでしょう。

さらに言えば、今はネット販売で木地師の作ったオリジナルで、一つしかない物を求める人に直接届けることも可能です。それがワールドワイドで行える可能性もあるのです。

木地師のなり方

伝統文化を見て触れる、盛岡手づくり村の魅力とは?

何気ない日常の中で皆さんは、日本文化に触れることはありますか?

何かと忙しい現代人は文化に寄り添って暮らす余裕がない方も多くいると思います。そんな方におすすめなのが文化体験型の施設やテーマパークなどです。

今回、ご紹介するそんな体験型のおすすめ施設は、岩手県にある「盛岡手づくり村」です。

盛岡手づくり村とは


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盛岡手づくり村とは、一体どんな施設なのでしょうか。その魅力をお伝えしていきます。

「盛岡手づくり村」は盛岡を代表する観光施設です。ここでは、様々な体験をできる施設や工房があります。盛岡特有の文化に触れたり、特産物などを自分で作ってみたりなどの体験ができるのです。

各工房の作業風景も、もちろん見学できます。盛岡の地場産業を「見る」、「触れる」、「作る」をコンセプトとして実際に体験し、文化を体験することができる施設として人気を集めています。

盛岡手づくり村は大きく分けて3つのゾーンにわかれています。

1.盛岡地域地場産業振興センターゾーン

このゾーンは「盛岡地域の地場産業」を振興させることを目的としたゾーンになっています。ここの運営は、岩手県と盛岡市が中心となり、近隣の町村と商工団体、地場産業界で組織した財団法人が行っています。

2.工房ゾーン

このゾーンでは、盛岡の一流職人達が実際に本物の「ものづくり」を行っています。もちろんこのゾーンの「売り」でもある「ものづくり体験」ができます。

「ものづくり体験」は、一流の職人直々にてほどきを受けることができるのです。体験作業を通して、職人さん達とお話しすることもでき、交流を深めることができます。

盛岡手作り村の顔として、人気の高いメインスポットなのが、この「工房ゾーン」というわけです。工房は全部で15工房あります。あなたも気になる工房かあれば、ぜひトライしてみましょう。

3.南部曲り家ゾーン


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このゾーンは、盛岡に古くから伝承される「南部曲り家」を移築した家屋があります。盛岡手づくり村にある曲り家は200年ほど前に建てられたものです。

この曲り家は農業が盛んだった南部独特の建物です。現在では見ることができない貴重な建物で藁葺き屋根や囲炉裏など時代劇やテレビ、映画でしか見たことのない建物は、実物を見ると感動を覚えます。

このように様々な施設とゾーンがあり、1日だけでは見切れないほどいろいろあります。盛岡手づくり村の基本情報をまとめてみました。

盛岡手づくり村


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住所:〒020-0055岩手県盛岡市繋尾入野64-102
最寄り駅:小岩井駅から徒歩約37分
営業時間:月~日08:40~17:00
定休日:年末年始
公式サイト:http://tezukurimura.com/main
アクセス:JR盛岡駅から繋温泉行、または繋経由鶯宿温泉行のバスを利用して約30分「盛岡手づくり村前」下車。

入場料金は無料となっていますが、それぞれの施設や体験には別途料金がかかります。では、次からはそれぞれの「ものづくり体験」について、詳しく説明していきます。

盛岡手づくり村の体験①

南部せんべい手焼き体験

盛岡手づくり村で南部せんべい(盛岡せんべい)の手焼き体験をすることができます。

なんと言ってもこちらの体験の醍醐味は、普段食べることのできない自分で焼いたアツアツ、ホクホクの南部せんべいを食べることができることです。

作るプロセスもとっても楽しいのですが、それだけでなく食べても美味しい、2重に楽しめる体験です。盛岡手づくり村を訪れた際には、おすすめの体験です。時間はたったの3分でできます。料金は、せんべい一枚で100円です。

盛岡手づくり村の体験②

南部鉄器作り体験


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盛岡手づくり村で人気が高く、伝統工芸品でもある南部鉄器。入念な手作業によって作られる南部鉄器を作る職人の作業を間近で見られます。また、工房には伝統工芸士も在籍しています。

盛岡手づくり村の体験③

南部系こけし絵付け体験


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産地によって形に特徴がある「こけし」。こちらの「こけし」は「南部系こけし」です。その絵付けの体験ができます。こちらは一時間ほど時間がかかり、個人ではできません。団体のみでの受付です。

盛岡手づくり村の体験④

金のベココ作り体験

盛岡手づくり村の木工体験では「金のベココ」を作ります。道具はくぎやのりを使います。「金ベココ」は幸運と商売繁盛のマスコット。時間は約60分。料金は一名2,200円です。

盛岡手づくり村の体験⑤

盛岡冷麺手作り体験


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盛岡の美味しい物として全国的にも有名なのが、「盛岡冷麺」です。盛岡手づくり村では、その冷麺を手づくりで作って美味しくいただけます。

生地をこねるところからはじまり、麺を作り、ゆでて水洗いし、具材をトッピング、スープを入れれば出来上がり。お手製の冷麺をお楽しみ頂けます。約20分かかり、料金は1人972円です。

盛岡手づくり村の名物

盛岡手づくり村の名物であるのが「なんじぇら」です。オリジナルのアイスである「なんぶジェラート」を略して愛称としたのが「なんじぇら」。南部せんべいにジェラートを挟み込んだ斬新なアイデアのアイスです。

価格は、一個250円。種類は、いちご、アロニア、パンナ、抹茶などがあります。お取り寄せもできますよ。ぜひ、ご賞味ください。

盛岡手づくり村で新しい発見を

伝統と文化を知り、体験することによって感じることのできる施設で、大人から子供まで楽しみながら学ぶことができる「盛岡手づくり村」に、ぜひ一度行ってみてください。きっと新しい発見がありますよ。

東京の伝統工芸品「アンチモニー」とは?その歴史や製品をご紹介します

みなさんはトロフィーやオルゴールなど、金メッキや銀メッキが使われているものの地素材の合金を知っていますか?その地素材として多くの製品に使われているのは、東京の伝統工芸品「アンチモニー」なのです。「聞きなれない言葉で、どんなものなのか想像がつかない」という人がほとんどでしょう。

そこで今回は、職人の腕が光る東京の伝統工芸「アンチモニー」についてご紹介します。

アンチモニーとは


出典:写真AC

アンチモニーとは、「アンチモン」という金属の英語読みのこと。日本では一般的に、アンチモン(10~30%)・鉛(85~88%)・錫(すず)(2%)でできた合金のことを指します。そして、この合金を溶かして鋳型加工したもが「アンチモニー工芸品」です。

アンチモニー工芸品は、明治初期に東京の地場産業として技術が確立され、現在では主に東京都北東部から千葉県我孫子市一帯で作られています。

アンチモニーの材質


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アンチモニー工芸の材料は、「焼地金」と「戻し地金」の2種類があります。

焼地金(1割地金)は鉛が9割、そしてアンチモンが1割使われています。戻し地金(2割地金)は鉛が8割、そしてアンチモンが2割使われています。

なぜ鉛のみで製造しないのかというと、すべて鉛で作ってしまうとやわらかくなりすぎてしまうからです。これら2つの生地は、製造するものの用途に合わせて使い分けられます。例えば、焼地金は賞牌やトロフィー、戻し地金はゴルフ人形や立体物などに使われていますよ。

アンチモニーの特徴


出典:写真AC

アンチモニー工芸品は、しっかりとした重さがありながら、表面が美しいのが特徴。表面に施した模様や文字が、きれいに浮かび上がるのです。

また、ほかの金属で生成する鋳物よりも、メッキに彫刻などを施しやすい特徴を持っています。というのも、ほかの金属とは違って、冷やすと膨張するからです。トロフィーに刻まれている繊細な模様は、アンチモニーが冷えるときに膨張することで、きれいに型の隅まで入り込んでいるから美しいんですよ。

また、見た目が美しい上にコストも軽減でき、一度にたくさん作れるメリットもあるのです。

【包丁を1から作る】越前打刃物の魅力伝える「タケフナイフビレッジ」

タケフナイフビレッジとは

タケフナイフビレッジは福井県越前市余川町にある、越前打刃物を扱う店舗兼工場になります。

タケフナイフビレッジという名称ですが、包丁やハサミ、大工道具などの取り扱いもあり、幅広い範囲での刃物を扱っているのが特徴です。

工場見学が可能なほか、体験教室なども実施しており、様々な角度から越前打刃物に親しむことができます。また、ショップでは包丁などの研ぎ直しなども受け付けており、刃物に関する総合的なサービスを提供しているのです。

越前打刃物の歴史


出典:写真AC

越前打刃物は700年ほど前に、刀匠の千代鶴国安が旅の途中に越前武生に立ち寄り、刀剣を鍛える傍ら鎌などの日用品を作ったことが起源とされています。

それ以降、越前の打ち刃物は全国に広まり、江戸中期には日本一の生産量を誇るようになったといわれています。一時期衰退の兆しを見せるものの、昭和54年には伝統工芸品に認められ、その後複数あった組合が協力し合い、産地進行と技術継承を推進することになります。

昭和57年には産地振興を目的とした振興計画が通産省に認められ、再び全国にその名が知られるようになったのです。

刀匠千代鶴国安

刀匠千代鶴国安は、刀を一振り打つたびに研石を使って小さな狛犬を彫り、井戸に沈めたといわれています。刀は人を殺すものではなく、あくまで武士の象徴として存在して欲しいという願いがこめられています。

越前刃物は狛犬をその意思を受け継ぐ象徴として、扱うようになっていったのです。

越前打刃物の特徴


出典:写真AC

越前打刃物には独特の技法が存在し、包丁の二枚広げと、鎌に使われる廻し鋼着けが有名です。

二枚広げは金属を二枚重ねて素早く、薄く延びるように加工する手法です。金属を二枚分使うため、丈夫でムラが少ない包丁ができます。

廻し鋼着けは柾置法とも呼ばれ、鋼を一度ひし形に伸ばすのが特徴になります。薄く、研ぎやすい刃を作ることが可能で、鎌の切れ味の確保やメンテナンス性の向上に一役かっています。

非常に高度な技法になっていて、熟練の職人でなければ作ることができないと言われています。

タケフナイフビレッジの工場見学

タケフナイフビレッジは無料で工場見学を行うことが可能で、営業時間中であればいつでも工場内を見ることができるようになっています。

別棟では体験教室も行っていて、ペーパーナイフなどを作ることもできます。

タケフナイフビレッジで買えるもの


タケフナイフビレッジで扱っているのは、包丁やハサミといった刃物になります。工芸品としてデザイン性と機能性を高めたナイフや包丁も扱っていて、メンテナンス性の高さや機能性の高さが評価されています。

業務用の利用に耐えられる、鋭い切れ味の包丁も販売されているのも特徴になります。

包丁の一部は受注生産になっていて、納期未定になるほど人気が高く評価されています。タケフナイフビレッジの包丁は一本一本手仕事で作られるため、大量生産ができないのです。

電話やFAXで注文も可能ですが、実店舗には公式サイトに記載のない商品も置いてあるため、現地に行く醍醐味の一つにもなっています。

タケフナイフビレッジでできる体験

「張り子の虎」の意味と使い方|類語・対義語もチェック!

【読み方】 はりこのとら
【意味】 首を縦に振る癖のある人を揶揄するのに使われる。転じて、外見だけで中身が伴わないこと。
【類義語】 「見かけ倒し」「張りぼて」「羊頭狗肉(ようとうくにく)」「羊質虎皮」
【対義語】 「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」
【例文】 彼みたいな張り子の虎を部長に任命するのは間違いだ。

2つの顔を持つ張り子の虎


出典:写真AC

「彼みたいな張り子の虎を部長に任命するのは間違いだ」というような使い方をされる「張り子の虎」ということわざをご存知でしょうか。

張り子というと張り子の犬を想像される方が多いかもしれませんが、実は「張り子の虎」という言葉にはことわざとしての使い方もあるんです。あまり頻繁に使う言葉ではありませんが、その類義語にはみなさんがよく知っている言葉もあります。

また、伝統工芸品としての張り子は日本独自の技術と思われがちですが、実際は全く違うところが発祥だということをご存知でしたか?

張り子という造形技法には、実はあまり知られていない歴史や風習などがたくさんあるんです。

この記事では、ことわざとしての「張り子の虎」の意味や例文、類義語、伝統工芸としての「張り子」について見ていきます。

世界の伝統工芸技法「張り子」とは?


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「張り子」とは木や竹を使って骨組みを作って、粘土や紙を貼り付けて人形のようなものを作る造形技法のことです。しっかりとした見た目の割に、中は空洞になっているのが特徴です。したがって、見た目に反してそれほど重くない作品も多くあります。

張り子は日本特有の技法と思われていることも多いのですが、実際は2世紀に中国で始まったと言われていて、その後ヨーロッパやアジアに広まったとされる説が有力です。

現在でも、イタリアの祭りで使われている仮装用マスクは張り子の技術を用いて作られています。

張り子の文化が日本に入ってきたのは平安時代で、現在では日本全土に普及して「赤べこ」や「だるま」、「起き上がりこぼし」などは郷土土産として人気を博しています。

張り子の虎の意味


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さてこの張り子のなかでも虎を模したものが、「張り子の虎」です。先ほど述べたように、この張り子の虎にはことわざとしての使い方があります。

張り子の虎は「人の言うことにただ頷いているだけの人」、「実際は能力がないのに虚勢を張る人」、「首を振る癖がある人」といった意味を指します。

張り子の虎は首がうなずくように縦に稼働する仕組みがあることから、このような意味になりました。いずれにしろ、人をあざける意味で使われることがほとんどです。

見た目のかわいらしさや縁起物としての性質とは裏腹に、あまり縁起の良い意味合いではないのです。

張り子の虎の使い方


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それではこの張り子の虎ということわざ、日常会話ではどのように使ったらよいのでしょうか?以下に紹介していきます。

「彼女は所詮張り子の虎だから、相手にしないほうがいい。」

張り子の虎みたいな上司を持ってしまったおかげで、胃痛が絶えない。」

「新しいアルバイトを雇ったが、張り子の虎だったようで、まったく使えない。」

など、どれも良い意味ではありませんね。あまり迂闊(うかつ)に使ってしまうと、あらぬ誤解を招いてしまいかねない言葉なので、慎重に使うようにしましょう。

張り子の虎の類語・対義語


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ことわざとしての張り子の虎の類語は、見かけ倒し、張りぼて、羊頭狗肉、羊質虎皮など、いずれも外見ばかりで中身が伴わないさまを表す語です。

上のうち、見かけ倒しは比較的よく使う言葉ではないでしょうか。また張りぼてというのは要するに張り子で作ったもののことで、ざるやかごに紙を貼り、漆などを塗りつけたものを指します。

類語のうち後半2つは高校のころの国語の問題くらいでしか見たことがないという方も多いかもしれませんね。「羊頭狗肉」は「羊の頭を懸けて犬の肉を売る」ことから転じて、「見かけだけ立派なものを使って粗悪な実物をごまかす」という意味です。

また、「羊質虎皮」は「実際は羊なのに虎の皮をかぶっている」、つまり「外見に反して中身が伴わない」ということを指します。

対義語としては、強いて挙げるとすれば「文質彬彬」という四字熟語があります。これは外見の美しさと内面の素朴さがちょうど調和し合っていることを指します。外見・内実ともにずれがないということですね。

張り子の虎は日本のものではなかった?

さて、ここまでことわざとしての張り子の虎について見てきましたが、ここからは伝統工芸品としての張り子の虎について見ていきましょう。
張り子は海外から輸入された文化ですが、今ではすっかり日本の文化になりつつあります。代表的に名前があがるのは香川県です。

張り子の虎は、香川県の伝統的工芸品に指定されていて、日本全国から注目を集めています。現在は香川県の三豊市に張り子の虎の技法を引き継いだ3名の伝統工芸士がいて、張り子の虎を作成しています。

ちなみに、この伝統工芸士が作った張り子の虎だけが、香川県の伝統工芸品に指定されています。そのため、香川県の張り子の虎を手に入れるのは、一種のステータスとされているのです。