アンチモニー|東京の伝統工芸品は、江戸時代の職人によって生まれた

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アンチモニー工芸とは、主に鉛と錫、そして合金を組み合わせ溶かし、鋳造加工した工芸品のことを指します。この工芸品は、しっかりとした重さがありながら、表面が美しく表面に施した模様や文字が綺麗に浮かび上がるのが特徴となっています。

また、他の金属で生成する鋳物よりもメッキに彫刻などを施しやすいので、見た目が美しい上にコストも軽減することができ、1度に量産することができます。

アンチモニーの歴史


出典:写真AC

アンチモニー工芸の歴史は140年前の明治10年(1877年)にまで遡ります。当時徳川幕府が抱えていた鋳物師や彫刻師たちは、明治維新になると職を失ってしまいます。

そのため職を失い自らの腕を生かせるような新たな産業を模索している際に、アンチモニー工芸へと行きついたのでした。

その頃アンチモニー工芸は、主に日本橋を中心として貴金属商品を取り扱う問屋商人のもとへ運び込まれ、市場に出るようになりました。そしてその問屋が港町として栄えていた横浜に輸出業者の商人に売ったことで、海外へと輸出されるようになります。

それから明治33年(1900年)に重要物産同業組合法によって「東京輸出金属器同業組合」が設立されました。明治37年、38年には富国強兵の国策にのっとり、アンチモニー工芸の持つ見た目の美しさや海外の嗜好に合ったものが推進されたことで、アンチモニー工芸の基盤が完成したといわれています。

また、戦後まもなくの昭和20年(1945年)には、アンチモニー製品同業組合再結束の動きが高まりました。

昭和24年(1949年)には輸出アンチモニー工業協同組合が設立され、その翌年に起きた朝鮮戦争によって需要は高まり東京の地場産業の1つになり現代にまで至ります。

アンチモニーの材料


出典:写真AC

そんなアンチモニー工芸の材料は、焼地金と戻し地金の2つがあります。焼地金(1割地金)は鉛が9割、そしてアンチモンが一割使われていて、戻し地金(2割地金)は鉛が8割、そしてアンチモンが2割使われています。

なぜ鉛のみで製造しないのかというと、鉛ですべて作ってしまうと軟らかすぎてしまうからです。また焼地金は賞牌やトロフィー、戻し地金はゴルフ人形や立体物をそれぞれ用途に使い合わせて使います。

アンチモニーの加工工程


出典:写真AC

アンチモニー工芸の加工工程は、7つの工程があります。

1つ目に原型製作、2つ目に鋳型製作、3つ目に鋳造加工、4つ目にまとめ加工、5つ目に研磨加工、6つ目にメッキ加工あるいは着色加工、メッキ加工をした場合には7つ目に塗装加工をします。

まず鋳型は木型・石膏型の2つがあり、これらの鋳型は工芸職人の手によって製作され、そこに鋳型屋が合金を流し込み金型を作ります。鋳型屋によって作られたそれらの金型を合わせ屋がハンマーで叩いて金型を固め水漏れしないように組み合わせます。

なかでも最も高度な技術が要求されるのが、鋳型に彫刻を施す作業だといわれています。また、この彫刻作業はアンチモニー工芸が成立した明治時代当時と変わらない工程でされるものだそうです。

彫刻作業はまず模様が反対にも写されるように図柄を写し取り、それをタガネやナナコなどを使って彫ります。

かつてはダッチデザイン模様や花鳥・山水・富士山など日本を象徴するシンボルが彫られていましたが、次第にししあいぼりで彫られる唐草模様や近代的な西欧のデザインが取り入れられるようになりました。

アンチモニーの魅力


出典:写真AC

アンチモニー工芸はおよそ140年前の明治時代に作られてから、東京の地場産業の1つとして盛り上げられてきました。そしてアンチモニー工芸の最大の魅力は模様や彫刻の美しさ、そしてコストの安さに加え大量生産することが出来る点にあります。

またアンチモニー工芸の加工過程の中には、アンチモニー工芸が生み出された明治時代当初のものがあり、古くから伝わる伝統工芸としても貴重です。ぜひ機会があれば、明治期の東京を支えた地場産業であるアンチモニーに触れてみてください。

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