takeuchimaaya

【裂き織り】おしゃれなリメイク伝統工芸「裂き織り」の魅力

「裂き織り」という名前を聞いたことがありますか?

手芸好きさん以外には馴染みがないかもしれませんが、古着や雑布を活用した機織り技法のひとつなんです。ランダムな裂き具合で織られた布には、製作者も意図しない風合いや雰囲気が生まれます。

今回は、「裂き織り」の技法や活用方法を紹介します。

裂き織りとは


出典:写真AC

裂き織りとは、古くなった布を裂いて、麻糸などと共に織り上げるやり方であり、古くは江戸時代から行われてきたものになります。

そもそも昔は衣類は非常に高価なものであり、今のように普段着すら安く買うことができなかったので、再生衣料として使うのは当然の行為でした。また、最近では衣服のみならずバッグなどにもこの裂き織りの技法によって再生させたものを使ったり、縫いつけたりすることもあります。

裂き織で新しく生まれた布や衣類は、二つの異なる布を使ったものですから、色新しい雰囲気を纏ったものになります。そのため古い技法ではありますが、若い人から人気を集めています。

裂き織りといえば衣類に、というのが一般的なのですが、今では衣類に限らず様々な物品に活用されるようになっています。

裂き織りの裂き方


出典:写真AC

裂き織りといっても適当に裂くわけではありません。まずは、裂こうとしている布の縫い方の方向に合わせて裂くのが基本です。実際はその方向にハサミなどで切れ目を入れて、手で裂くというのが一般的です。

布は思ったほど綺麗に切れるものではないのですが、手で裂いた感じがあるほうが雰囲気がありますし、何かと面白い形で継ぎを当てることができるようにもなります。

まっすぐな市販の糸ではないので、裂いた布は太さが一定ではありません。ですから、横糸として織り込むことによって、趣のある織り地になります。

元々はリサイクル的な側面が強く、倹約志向ともいえたやり方なのですが、今ではちょっとしたお洒落を取り入れるために使われるようになっています。これぞまさに、古きを訪ねて新しきを知るというものですね。

裂き織りの織り方


出典:写真AC

裂き織りにも色々と織り方があります。普通に織物としてやるときには、まずタテ糸を準備しておきます。古い木綿の布を細く裂いたら、裂いた木綿布をボールのように巻いていき、木綿のボールを解きながら機を織ることになります。

安い麻糸を経糸にして、緯糸に端切れの紐を用いて織っていくことによって、風合いのある作品が出来上がるようになります。

裂き織りでどんなものが作れるのか

【雨あめふれふれ】蛇の目傘の産地と魅力を紹介

和傘といえば番傘が有名ですが、「蛇の目傘」もあるのはご存知ですか?そうです、あの「雨あめふれふれ…」の歌にある「蛇の目」とは雨傘のことです。

和傘の文化は洋傘の普及以来、急速に下火になりましたが、伝統的な蛇の目傘の生産は今も続いており、クオリティの高い商品が日夜生み出されています。

今回は、蛇の目傘の魅力について紹介します。

蛇の目傘の歴史


出典:Pixabay

蛇の目傘は、平安時代に中国より傘の文化が渡来してきて広まったとされています。この頃の和傘は現在のように開閉できるものではなく、常に傘の部分が開いたままのものでした。さらに、傘を使うのは、皇族のような身分の高い人が主で、今のように一般的に普及してはいなかったようです。

その後、江戸時代の中期になり手工業が発達すると同時に、和傘の文化も市民に広まっていくようになりました。この広がりと共に姿を現したのが、蛇の目傘となります。

蛇の目傘が登場した頃は、定紋と呼ばれる模様をつけるのが女性の間で流行し、蛇の目傘の流行を促したとされています。江戸時代後期には、現在の蛇の目傘のように細身のものが出てきて、細傘として親しまれたといわれています。

蛇の目傘の特徴


出典:Pixabay

蛇の目傘は、和傘の一種です。和傘は私たちが普段使っている洋傘と違い、竹や木、和紙などの天然素材で作られます。さらに、特徴的な違いが骨組みの数です。

通常の洋傘は骨の数が大体8本ですが、和傘は30本以上あり、多いものになると70本も骨の数があります。このため、和傘は洋傘と比べ頑丈にできており強風に強い作りとなっています。

蛇の目傘は、和傘の中でも細身の作りになっており、江戸時代には女性向けに作られていた傘となっています。特徴としては、柄の部分が細めで、傘を開いたときに蛇の目などの模様がついているものが多いです。

傘の部分の和紙を組み合わせて、華やかな色合いや模様になっているものが多いことも特徴の一つです。

蛇の目傘の産地

蛇の目傘は、洋傘の発展と共に産地が減っていきました。それでも、伝統産業として今も全国で作られています。

有名な産地は、岐阜和傘で有名な岐阜県や京和傘で有名な京都があげられます。特に岐阜県は和傘の生産で有名で、昭和の最盛期には年間1500万本もの生産を行っていたようです。

岐阜県のデパートや和傘販売店では今でも、たくさんの蛇の目傘の販売を行っています。色とりどりの蛇の目傘が一堂に会している風景は大変綺麗で見ごたえがあります。

京和傘は歌舞伎や舞妓の小道具用に作られているものが多く、日常品として使うものは減ってきています。今でも生産を続けているお店はどれも古くから続いている老舗が多く、非常に質の高い蛇の目傘を作ります。

蛇の目傘の作り方

蛇の目傘は、和紙、竹、木、柿渋、亜麻仁油、漆といった自然にできた素材を用いて作られます。その作業の工程は、下事(したご)やまくわりといった大きく分けても10数工程、細かく分けると2~30以上の工程にも及ぶ作業となります。

この長い工程を、傘づくりの職人が各工程に分かれ数週間にかけて手作業で作成にかかります。

専門の職人は、蛇の目傘の骨組み部分を担当する「竹骨職人」、傘の和紙の貼り付けなどを担当する「和紙職人」といった細かく分けられており、それぞれが繊細で芸術的な作業を行なっています。

蛇の目傘の魅力


出典:Pixabay

蛇の目傘の魅力は、何といっても内側の装飾にあります。代表的な和傘の種類である番傘と違い、蛇の目傘は内側の小骨の組み方や小骨のかがり糸まで装飾が施され芸術的に仕上がっていることが多いです。

このような装飾は、洋傘はもちろん、和傘でも珍しい蛇の目傘ならではの魅力となります。

さらに、傘の部分に使われている和紙も、様々な色合いのものを折り重なっていることが多く、外側からも美しい造形となっています。傘として利便性だけでなく、ファッションや芸術性の高さも兼ね揃えていることが蛇の目傘ならではの魅力といえます。

ぜひ色とりどりの蛇の目傘の姿を手に取り、魅力に触れてみてください。

【大人の溜まり場】東京でおすすめの社会人サークル

学生のころはサークルでワイワイやっていたのに、社会人になったら共通の趣味を持てる人が減ってつまらないという人もいるのではないでしょうか?

そんな方におすすめしたいのが「社会人サークル」です。いったいどんなことをしているのでしょうか。今回は社会人サークルのアクティビティについて紹介します。

社会人サークルとは?


出典:Pixabay

社会人サークルとは、社会人同士が、趣味やイベント活動に勤しむ団体のことです。大学のサークルを、そのまま社会人が行っている感覚に近いです。

大学のサークルは平日から活動していますが、社会人サークルは土日・祝日を使っているのが特徴です。なるべく社会人が無理せず参加できるように考えられているのです。

仕事が終わった後に参加するサークルもあるので、どこも一様に休日ばかりというわけではありません。毎週何かしらの活動をしているサークルもあれば、ランダムに活動しているサークルもあります。

参加は強制ではないので、無理のないスケジュールで参加できるのも魅力です。

社会人サークルの良さ


出典:Pixabay

社会人になると、毎日の仕事に追われてばかりで、充実した時間を逃してしまう人が多いと思います。せっかくの休みの日も特に予定がなくて、「寝て終わり…」なんていうことも多いですよね。

アクティブに仕事をこなすためには、効率の良い息抜きも必要です。だからこそ、上手な息抜きができない社会人におすすめしたいのが社会人サークルなんです。

同じ趣味をもつ仲間が集まることで、気兼ねなく盛り上がることができますし、交友関係の幅も今までにはなかった広がりを見せます。

ビジネスパートナーに発展することもあるので、仕事面で有利になることも。また恋愛に発展することもあり、そのままゴールインというカップルも増えています。

「社会人が集まっている」ということを考えると、学生のような下品なノリはないので、大人の楽しみ方ができるのもメリットだと言えるでしょう。

東京でおすすめの社会人サークル①

品モノラボ

ものづくりに特化したサークルで人気を博しているのが、こちらのサークルです。ネーミングにもある通り「品川に縁がある」ものづくりが中心になっています。様々なメーカーの社会人たちが集まって、飲食を楽しみながら、語ったり、作品を作ったりします。

この活動を通して出来上がった作品は、展示会に出したり、コンテストに応募したりするなど、「作って終わり」じゃないのも魅力的です。

気になるのは「品川に縁がある人じゃないと参加できないの?」ということですが、「品川に縁がある」という解釈は「勤務先がある」「通勤で通る」「住んでいる」「よく飲みに来る」「品川が好き」「自分はなんとなく品川っぽい気がする(笑)」など、何でもOK!

結局のところ、誰でも参加できてしまうのです。気になる方は、一度参加してみてはいかがでしょうか?

東京でおすすめの社会人サークル②

シブヤ大学

渋谷にちなんだものづくりに特化した、社会人サークルです。その内容は多岐にわたっていて、「街を歩いて地図を『作る』」「仕事について考える機会を『作る』」「異文化交流する場を『作る』」など。

真面目な話題になることもあれば、ユニークな話題になることもあるので、振り幅の広さが魅力的です。

集まっているのは、20代から30代が中心。中には親子で参加しているユーザーもいますから、必ずしも社会人である必要はなくてもいいのです。

内容によっては、サークル参加者が生徒になったり先生になったりと、立場が変わるのも面白いところ。

特別の教室を設けているわけではないので、カフェ、レストラン、病院、神社など、開催場所が随時変わるのも楽しいポイントです。

いろいろなジャンルの社会人サークル

長崎の海に浮かぶ真珠・壱岐島の魅力を紹介

長崎県の美しい対馬の海に浮かぶ離島・壱岐島。歴史的ルーツを持つ壱岐・対馬の中でも、本州とは違った別世界のような魅力を持つ孤島です。そんな壱岐島の観光スポットと魅力を紹介します。

壱岐島とは


出典:Pixabay

壱岐島は、九州の北方にある長崎県の島です。別名は、「天比登都柱(あめひとつばしら)」と呼ばれています。壱岐島の大きさは、車があれば二時間半ぐらいで一周できるほど小さいです。

貴重な歴史や文化、自然がたくさん残されているため、島全域が「壱岐対馬国定公園」に指定されています。

ちなみに周辺には、23個にも及ぶ属島が存在していて、それらの島を全てひっくるめて、壱岐島と呼んでいるようです。

壱岐島へのアクセス

壱岐島へのアクセスは、福岡空港から高速船に乗るのが一般的で、1時間ほどでアクセスできます。長崎からアクセスする場合は、飛行機を使って30分ほどです。

壱岐島内での移動は、レンタカーがないと厳しいでしょう。

壱岐島には電車が走っていません。バスは走っているものの本数は少ないので、ご注意を。空港のすぐそばにレンタカーがありますし、島の中にもレンタカーが点在しているので、訪れた際は是非ご利用ください。

壱岐島の観光スポット①猿岩


出典:写真AC

黒崎半島の先端にある、高さ45メートルの岩です。横から見ると、猿の横顔のように見えることから、このネーミングになった「猿岩」。これが、自然が生み出した造形だというのは驚きです。向きによって表情が変わるので、角度を変えて見るのも楽しみのひとつです。

また、猿岩から見る夕日の美しさも必見!猿岩を訪れる際は、夕日が沈む時間帯に合わせるのも良いでしょう。ちなみに、このスポットは、映画『奈緒子』の撮影場所になっていました。そのため、映画ファンの聖地巡礼としても、定着しています。

ちなみに、すぐそばには、「おさるのかご屋」があるのも魅力的。ここでしか購入できないお土産を販売しているので、是非お立ち寄りください。

【住所】長崎県壱岐市郷ノ浦町新田触870-3

【アクセス】郷ノ浦港から車で20分

壱岐島の観光スポット②一支国博物館

ぱっと見た感じ、不思議な建築デザインになっている「一支国博物館」。それもそのはず、個性的な建築を作ることで有名な黒川紀章氏がデザインをしているんです。なんでも、黒川紀章氏が、国内で最後にデザインしたのが、こちらの博物館なんだとか。

中に入ると、魏志倭人伝が壁いっぱいに映し出されていて、インパクト十分です。他には、壱岐島で発掘された遺跡が展示されていたり、それに直接触れることができたりします。貴重な展示物が目白押しです。

【住所】長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触515番地1

【アクセス】郷ノ浦港・芦辺港から車で20分。印通寺港もしくは壱岐空港から車で10分。

壱岐島の観光スポット③月読神社


出典:写真AC

壱岐島で有名な神社と言えば月読神社です。なんでも、伊邪那岐と伊邪那美命が、天照大御神の次に作ったのが、月讀命なんだとか。その月讀命が祀られているのが、こちらの神社なんだそうです。

神道発祥の地とされている背景もあってか、雑誌やテレビで頻繁に紹介されるようになり、壱岐島を代表するパワースポットになりました。

【アクセス】郷ノ浦港からタクシー約10分。芦辺港からタクシー約5分。印通寺港からタクシー約15分。

【住所】長崎県壱岐市芦辺町国分東触464

壱岐島の観光スポット④筒城浜海水浴場

出典:写真AC

壱岐島には、30個ほどのビーチがあります。その中で、一番人気と言ってもいいのが、空港の近くにある「筒城浜海水浴場」です。

とにかく、眺めが最高に素晴らしい!その美しさは、 「白砂青松100選」「日本の水浴場55選」「日本の渚100選」「日本の水浴場88選」「快水浴場百選」など、名だたる絶景ランキングに選ばれているほどです。海水の色も綺麗で、少し離れた底がビーチから見えてしまうほどの透明度。砂浜の美しさも魅力的で、きめ細かい白い砂浜が約600メートルも続いています。

夏は多くの観光客が足繁く通い、シャワーや更衣室、キャンプ場やバーベキュー施設、テニスコートなど、楽しみやすい海水浴場になっています。

【住所】長崎県壱岐市石田町筒城東触1916

【アクセス】印通寺港から車で10分

壱岐島の観光スポット⑤鬼の足跡

【染物と出会う】名古屋・有松絞りまつりの魅力を紹介

名古屋で年に一度開催される「有松絞りまつり」では、様々な美しい染物にめぐり逢うことができます。また職人による染物パフォーマンスを見ることができる機会も貴重です。そんな有松絞りまつりの魅力を紹介します。

有松絞りとは


出典:写真AC

有松絞りは絞り染めの1つであり、愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域で生産されたものをそのように呼びます。この地域で江戸時代以降の絞り製品を多数生産しており、今では国の伝統工芸品ともなっています。

藍で染めたものが代表的なものであり、多くの技法を用いた多種多様な模様があります。特産物をつくろうとしていた尾張藩が有松絞りに目をつけ、浴衣や手ぬぐいのお土産品として売り始めたことが起源になっています。街道一と謳われた名産でもあり、多くの浮世絵にも描かれることになる特産品です。

有松絞りまつりの歴史


出典:写真AC

そんな有松絞りを取り扱った有松絞りまつりというのがあります。

有松絞りまつりは年1回、6月に2日間の日程で行われるお祭りであり、既に30回を越える歴史あるお祭りになります。有松絞りまつりでは、有松の町中に多くの絞り商品、作品が並べられて販売されています。飾りも多く、非常に煌びやかな雰囲気の中開催されます。

有松絞りまつりはあくまで有松絞りのよさを知ってもらうためのお祭りですから、神輿などのような出し物はなく、比較的しずかに見て回って楽しむタイプのお祭りです。但し、パレードは行われています。地元の吹奏楽部や消防音楽隊などによって音楽を奏でながら行進します。

有松絞りまつりではこの日のためにミス絞りと呼ばれる女性、有松福男と呼ばれる男性を2名ずつ選出し、パレードに参加して華やかさを演出しています。

さらに有松絞りまつりの目玉ともいえるのが絞り染め体験のワークショップです。伝統工芸の技を体験することができるイベントが多く行われています。

有松絞まつりの見どころを紹介

でらどらさん(@deradora777)がシェアした投稿

有松絞まつりの見どころは、絞りの実演になります。職人による生の絞りパフォーマンスが、有松絞りまつりでは鑑賞できます。有松絞りには数多くの括り技法がありますから、そのバラエティの多さを見て楽しむことも可能です。

普段見ることができない職人技を見るのは、子供連れなどにとってもよい機会となるでしょう。

また、見所の一つとして山車も出ます。布袋山車のからくり人形には見所があり、イベントの目玉にもなっています。

有松絞りの体験ができるところ

rieokmtさん(@akasata773)がシェアした投稿

有松絞りまつりで染物に興味を抱いたのであれば、体験をしてみるとよいでしょう。有松絞りまつりでも体験はできますが、普段から体験ができるところがいくつもあります。

たとえば有松工芸濱忠有限会社では、トートバッグや手ぬぐいなどを製作することができます。その他には有松・鳴海絞会館においてもハンカチ作りなどに挑戦することができるようになっています。

有松絞りまつりでもこの手の体験は可能ですが、やはり本格的な染物体験がしたいのであれば、こうした職人に指導してもらえるところに行くのがよいでしょう。

名古屋市内観光のついでにも立ち寄ることができます。費用は制作物によって異なりますが、最も安いもので2000円位からとなっています。

有松絞りまつりの魅力

有松絞りまつりでは、様々な有松絞りの製品を買うことができるようになっています。

有松絞りまつりで安く有松絞りを大量に購入するため、という理由で見に来る人もいるようです。派手に盛り上がるタイプのお祭りではありませんが、フリーマーケットのように伝統工芸品をじっくりと堪能してみることができるのです。

飲食店も出店していますから、食事にも困ることはありません。食べ歩きしながらお気に入りのひと品を探すのもよいでしょう。

簡単な有松絞りの体験もできますし、職人の実演も見ることができるので、退屈することはありません。気になった人はぜひ、足を運んでみてはどうでしょうか。

あわせて読みたい、織物染物の記事一覧

百人一首「恋の歌」7選|現代語訳と歌人についての解説

百人一首は、一般的には『小倉百人一首』として知られているものであり、700年以上前に鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたものです。

基本的に『古今集』『新古今集』などの当時から古典的な歌となっていたものを集めた歌集、そして勅撰和歌集から選ばれています。この勅撰和歌集は、時の天皇の命で編さんされた和歌集で、全部で21の和歌集となっています。そしてこの和歌集の特徴としてあるのが恋の歌が多いこと。

今回は百人一首の中から、恋の歌を厳選してご紹介してきます。

百人一首に恋の歌はどれくらいあるの?


出典:写真AC

百人一首は名前の通り、一人一首が選ばれており、本当に全部で百首で構成されています。そのうちにどのくらい恋の歌があるのかといえば、実に四十三首と、半分近くを占めているんです。

そして、あとは季節の歌などが多く、季節の中でも秋が最もたくさんありますよ。公家ばかりではあるのですが、女性も多く、100人のうち21人は女性です。また、当時の最高の学識者であった僧侶も15人ほど選出されています。

歌集は世界的にどこでもあるのですが、ここまで恋の歌がメインになる公的な歌集は、世界的にも珍しいといえるでしょう。

百人一首の歌10選

今回は、百人一首から恋の歌だけを10首選んでご紹介します。

片思い中の切ない気持ちを詠んだものから、別れの悲しみを詠んだ歌までさまざま。当時の人の恋愛模様に思いをはせてみてくださいね。

玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

「我が命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、堪え忍ぶ心が弱ってしまうと困るから」

新古今集を代表する女流歌人で、藤原俊成の弟子でもあった式子内親王の恋の歌です。

百人一首を代表する、おさえきれない恋心の激情を読んだ歌です。この歌はもともと「忍ぶ恋」という題を与えられて読んだ歌。現代の我々から考えてみると、「そうまでして隠さなければないらないの?」とも思うかもしれません。しかし、妻ある人に恋心を抱いてしまった場合、こんな気持ちになるのでしょう。

君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな


出典:ぱくたそ

君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな

「貴方のためであれば、この命を捨てても惜しくはないと思っていたのに、逢瀬を遂げられた今においては、貴方に逢えると思うと長くありたいと思うようになりました」

藤原義孝の歌です。

藤原義孝は若死にした人物で、恋の歌といっても艶っぽいものではありません。そこはかとなく誠実な感じがするのは、人物そのものが歌に反映しているからでしょう。

仏教の信仰心が強く、清廉で孝行な人だったと伝わっています。歌自体には歴史的な背景や逸話があるわけではなのですが、人物の風格と誠実さが伝わってくる歌ですね。

「ちはやふる」に込められた意味とは?|在原業平の代表歌も紹介

【百人一首の意味】紫式部と清少納言が書いた歌が表現するもの

現代に残る宿場の風景・東海道五十三次の魅力

平塚、藤沢、戸塚、保土ヶ谷…という一連の土地名、どこかで聞いたことはありませんか?「東海道五十三次」の宿場の名前です。

「東海道五十三次」という言葉はよく聞きますが、実際にどんな順路をたどるのか、どんな宿場町がありどんな風景が見られるかは、交通機関の発達した現代では知られにくくなっています。

浮世絵にも描かれた宿場町、東海道五十三次の魅力を解説します。

東海道五十三次とは?


出典:パブリックドメインQ

東海道五十三次は浮世絵のタイトルでよく聞きますが、そもそもは東海道にある53の宿場を指す言葉でした。江戸時代に整備された道は大きく5本あり、そのうちのひとつが東海道です。さらに東海道は、江戸から京都を結ぶ道で当時の主要都市2カ所を結ぶ重要な道でした。

昔は今ほど交通機関が発達していませんでしたので、江戸から京都まで移動するために半月も時間が掛かりました。そのため、東海道の間には53もの数の宿場町ができました。この数を取られて東海道五十三次と呼ばれるようになりました。そして、東海道五十三次には名所がいくつもあり、絵画としてよく描かれていました。

有名な浮世絵で描かれている東海道五十三次もこの宿場町にある名所を描いたものとなっています。この東海道五十三次は、歌川広重といわれる浮世絵師の手によって描かれています。よく勘違いされがちですが、東海道五十三次は53の宿場とスタートの日本橋とゴールの京都を描いているので計55枚となります。

東海道五十三次を描いた浮世絵師・歌川広重とは

歌川広重は浮世絵師として有名ですが、若いころは火消し(今でいう消防士)と兼業で絵を書いていました。35才になると息子が成人になり、火消しの仕事を譲って絵師として専門で働くようになりました。

同じ年に幕府からの依頼で、東海道を往復する機会ができました。このときに見た風景を活かして、東海道五十三次を描いたとされています。歌川広重は東海道五十三次が名声を浴びたおかげで、風景画家としての地位を確保しました。

その後も江戸の名所や、東海道五十三次の別バージョンを描き生涯を終えています。歌川広重の絵は、日本国内ではもちろん海外でも名声を浴びています。さらに、絵画に使われている青色はとても美しく、評価の高いものです。

この綺麗な青色を海外では、歌川広重の名前を取って、ヒロシゲブルーとも呼んでいます。

東海道五十三次の総距離と移動時間


出典:写真AC

東海道は、東京の日本橋がスタートでゴールは京都の三条大橋となります。その距離は約492キロです。今でこそ車を使えば半日かからずに、新幹線を使えば3時間もあれば到着できるでしょう。しかし、当時のメインとなる移動手段は徒歩でした。

先ほども紹介しましたが、東海道の移動時間は約半月、13~15日程度かかっていたといわれています。単純に距離と日数で計算すると、1日当たり35~40キロ程度は歩いていた計算になります。人の歩くスピードは1時間で4キロ程度といわれていますので、江戸時代の人は毎日9時間程度歩いていたとなります。15日間、毎日9時間歩いて移動するとは、現代では考えられないですね。

東海道五十三次にも登場する「走井餅」の歴史と魅力

「走井餅」って知っていますか?

あの「東海道五十三次」の大津宿にも描かれている歴史の深い甘味です。そんな走井餅の由来、歴史、買える場所などを紹介していきます。

走井餅の歴史・由来

走井餅は、江戸時代の中期1764年あたりに生まれたお餅です。湧き水の「走井」使って、井口市郎右衛門正勝が作ったのが始まりとされています。

この時に使った「走井」は、成務天皇の産湯に使われていたほどに名高い水でした。そんな貴重な水を作って生み出された走井餅は、「刀の荒身」をモチーフにした形が特徴です

なぜこの形になったかと言うと、平安時代に名を轟かせた刀鍛冶の三條小鍛冶宗近が「走井で名剣を作っていた」という歴史にちなんだものです。

そんな背景もあって「剣難を逃れる、開運」という縁起担ぎの意味がこもっています。そんな走井餅は、天皇に献上されていたほど質の高い和菓子でした。

その味は現代にも脈々と受け継がれており、庶民も楽しめる和菓子として、定着しているのです。

走井餅の特徴

走井餅は、柔らかいお餅の中に、上品な甘さのあんがつまっています。「刀の荒身」の形は、現在でも健在。材料に妥協することなく、現代でも変わらぬ味を楽しむことができます。

柳宗悦とは|白樺や”民藝”、朝鮮との関係も紹介

民藝運動の父・柳宗悦

柳宗悦は民藝運動で知られている思想家・美術家であり、世界的にもその名が知られています。

民藝運動とは何か、といいますと、日常的な暮らしの中で当たり前のように使われている、日用品の中に美を見出す運動であり、用の美を追求して、活用する日本独自の運動のことです。

今でもなお、この活動は続いています。民芸という言葉を知っている人も多いでしょう。この民芸という言葉自体が柳宗悦によって作られた造語です。

柳宗悦は民芸品が注目を浴びるきっかけとなった人物であり、様々な民芸品コレクターが生まれた原因ともいえるでしょう。日本的な価値の一つとして実用性の美があるわけですが、柳宗悦はその走りともいえるきっかけを作った人物なのです。

柳宗悦が生んだ「民藝」という言葉運動


出典:Wikimedia Commons

柳宗悦が民芸に価値や美を見出し、その言葉が生まれたきっかけといえるのが、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教との出会いです。

特に染付秋草文面取壺という壺を見て、柳宗悦は朝鮮の工芸品に大きく心魅かれた、とされています。その出会いを通じて、朝鮮の美術に興味を持ち、朝鮮王朝時代の家具などに素朴な美意識を見出すことになったわけです。

それにより柳宗悦が民藝という言葉、つまりは一般の民が使うものに美しさを見つけ出した、と言われているのです。1925年に民藝という言葉を用いた、という記録があります。

このとき、初めて民藝という言葉が生まれたといっても過言ではないのです。

柳宗悦と白樺

白樺と柳宗悦は大きな関わりを持っています。柳宗悦は志賀直哉・武者小路実篤ら学習院の仲間達と文芸雑誌『白樺』の創刊に参加しました。

この白樺というのは人道主義・理想主義・個性尊重などを唱えた文芸雑誌であり、1910年4月に創刊されました。柳宗悦はその白樺派の活動を中心として、日本文学で大きな役割を果たしていたのです。

この雑誌では主に個性主義や自由主義を基調としており、ここでの気風が柳宗悦に大きな影響を及ぼしたわけです。

柳宗悦と朝鮮の関係

出典:写真AC

柳宗悦の民藝の基本は朝鮮の美術品、家具になります。

染付秋草文面取壺を見て宗悦は民の使うものに美意識を見出したわけですから、基本となる部分に朝鮮があるのは間違いないのです。また、1916年以降の柳宗悦は頻繁に朝鮮半島を訪ねて、仏像や陶磁器などの工芸品を収集したり、鑑賞していたりしていました。

柳宗悦は朝鮮民族固有の造形美に魅力を見出し、それらを生み出した朝鮮民族に敬愛の意を表しました。そして、当時の日本の朝鮮に対する施策を批判するなど、柳宗悦は朝鮮を愛し尊敬の心を寄せていたといえます。

そして、ついには朝鮮民族美術展覧会を開催し、1924年には朝鮮民族美術館を作るに至ります。日本ではなく、ソウルに設立をして、李朝時代の無名の職人によって作られたもの、それも多くが民衆の日用雑器を収集、展示しました。

まさに柳宗悦と朝鮮というのは切っても切れない関係にあるといえますし、美意識、価値観の出発点が朝鮮の民芸品であったわけです。

柳宗悦の著書「手仕事の日本」


出典:amazon.co.jp

柳宗悦の著書として、手仕事の日本、というのがあります。この本は日本全国を旅しながら、その地方の民藝品を紹介していくものであり、手仕事の紹介が淡々と行われていきます。

飾り気のない文章ではあるのですが、どうにも魅力的に見える実用の美を感じられる名著になっています。難解な言葉や華美な表現はないのですが、わかりやすく、それでいて綺麗で丁寧な質実さを感じる文章で日本中の手仕事、工芸が紹介されており、独特の世界観を味わうことができます。

加えて、作者である柳宗悦の思想もかなり見えるものになっており、手仕事を紹介しながら、日本にとって手仕事がどのように重要であるのかを訴え、日本は素晴らしい手仕事ができる国である、という認識を呼びかけたユニークな民藝の案内書になっています。

民藝の記録としても価値があり、一読することは十分に人生の糧になるといえるほどの本になっています。

ぜひこの本を入門書として、民芸の世界への一歩を踏み出してみてください。

 

柳宗悦が作った日本民藝館

日本の手仕事や民芸の魅力を伝える「日本民藝館」を紹介

日本民藝館の魅力を紹介│柳宗悦の説いた「用の美」を今に伝える

日本民藝館とは?

日本民藝館には伝統的工芸品が展示されていますこの日本民藝館は民芸運動の提案者であった柳宗悦によって創設されたものであり本館と西館があります

魅力といえるのが民芸品それも朝鮮半島の白磁や染付けや朝鮮民画などが多くある点ですそもそも柳宗悦が民衆が使う工芸品に魅力を見出したきっかけなったのが朝鮮美術であったことから朝鮮関係の工芸品が多くなっています

日本民藝館の開館時間は10時17時であり最終入館は16時30分までとなっています休館日は毎週月曜日となっています月曜日が祝日であれば翌日休館になります

アクセスは電車であれば、京王井の頭線の駒場東大前駅から西口から徒歩7分。或いは小田急線の東北沢駅東口から徒歩15分です。

バスであれば、渋谷駅西口バス乗り場より渋55系統、代々木上原で下車して、徒歩8分になります。

日本民藝館を創設した柳宗悦とは?

柳宗悦 出典:Wikimedia Commons

日本民藝館は名前の通り民芸品の美しさを周知させるという目的で作られたものになります

日本民藝館は、「民藝という今でこそ普及している美意識ではありますが当時はまだ芸術と認められていないものを、新しい美の概念として周知させるためそして、「美の生活化」を目指していた民藝運動の本拠地となるべく建てられた施設です

そんな日本民藝館を創設した柳宗悦(やなぎむねよし)は、明治期に海軍少将の三男として生まれ、長じて同人雑誌『白樺』に参加するようになりました。のちに大正期の民藝運動の中心人物となり、それまで美術品として真っ当に評価されることがなかった日用品などに「用の美」を見出します。

また、柳宗悦は民藝運動の始まる10年ほど前に朝鮮を訪れており、その際に朝鮮美術に魅せられ、朝鮮の陶器や磁器、美術品を収集するようになります。日本民藝館に朝鮮関係の民芸品が展示されているのは、このことが由来となっているのです。

日本民藝館でできること

日本民藝館のメインは展示になりますいくつかの展示があり、特別展と併設展と関連企画そして日本民藝館展になります

それぞれ時期が異なることもありますし、同時に行われていることもありますもし日本民藝館にいくのであれば今は何が展示されているのかを確認してみてください

日本民藝館では展示されているものを観賞することがメインの楽しみ方になります

日本民藝館公募展の紹介

takamyさん(@takamy03)がシェアした投稿

日本民藝館では公募展があります出品基準となっているのが用に即し繰り返しつくり得る製品」となっています

つまりは実用性があるような陶磁とか染織或いは木工などに至るまで幅広い美を見出すことができるものを公募して出展するというわけです

公募ですから入選なり準入選といった形で賞することになります

優秀作には日本民藝館賞というのが贈られ、毎年200人を超える人数の職人作り手からの応募がなされています。そのため、民芸の世界においてはかなり重要な位置づけをされている公募展です。

審査員は館長をはじめとした現役の芸術家陶芸家染め職人等職人の方々であり本格的に民芸としての価値観で審査をしてもらうことができるようになっています

日本民藝館の魅力

日本民藝館は日本独自の民芸という「用の美」を堪能することができる施設であり様々な民芸品の企画展や全国の民芸品の職人から受け付ける公募展もやっています

日本民藝館は、民芸品に美意識を見出して、それを展示している貴重な美術館博物館であるといえるでしょう。観光の際に訪れても、また日本の民芸品について学ぶために訪れても、見どころが多く非常にためになる施設です。

民芸品は、使う人にとっては暮しに役立つ具体的な利用の価値がある道具であると同時に、そこに芸術というまた別の側面を擁しているのです。

美しいとは何かということを再認識するためにも、一度は行ってみる価値があるといえるでしょう日本人のみならず外国人観光客の方々にとっても、日本文化を知ってもらうために良い機会となることでしょう。

 

日本民藝館を作った民芸の父・柳宗悦

柳宗悦とは|白樺や”民藝”、朝鮮との関係も紹介