現代に残る宿場の風景・東海道五十三次の魅力

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平塚、藤沢、戸塚、保土ヶ谷…という一連の土地名、どこかで聞いたことはありませんか?「東海道五十三次」の宿場の名前です。

「東海道五十三次」という言葉はよく聞きますが、実際にどんな順路をたどるのか、どんな宿場町がありどんな風景が見られるかは、交通機関の発達した現代では知られにくくなっています。

浮世絵にも描かれた宿場町、東海道五十三次の魅力を解説します。

東海道五十三次とは?


出典:パブリックドメインQ

東海道五十三次は浮世絵のタイトルでよく聞きますが、そもそもは東海道にある53の宿場を指す言葉でした。江戸時代に整備された道は大きく5本あり、そのうちのひとつが東海道です。さらに東海道は、江戸から京都を結ぶ道で当時の主要都市2カ所を結ぶ重要な道でした。

昔は今ほど交通機関が発達していませんでしたので、江戸から京都まで移動するために半月も時間が掛かりました。そのため、東海道の間には53もの数の宿場町ができました。この数を取られて東海道五十三次と呼ばれるようになりました。そして、東海道五十三次には名所がいくつもあり、絵画としてよく描かれていました。

有名な浮世絵で描かれている東海道五十三次もこの宿場町にある名所を描いたものとなっています。この東海道五十三次は、歌川広重といわれる浮世絵師の手によって描かれています。よく勘違いされがちですが、東海道五十三次は53の宿場とスタートの日本橋とゴールの京都を描いているので計55枚となります。

東海道五十三次を描いた浮世絵師・歌川広重とは

歌川広重は浮世絵師として有名ですが、若いころは火消し(今でいう消防士)と兼業で絵を書いていました。35才になると息子が成人になり、火消しの仕事を譲って絵師として専門で働くようになりました。

同じ年に幕府からの依頼で、東海道を往復する機会ができました。このときに見た風景を活かして、東海道五十三次を描いたとされています。歌川広重は東海道五十三次が名声を浴びたおかげで、風景画家としての地位を確保しました。

その後も江戸の名所や、東海道五十三次の別バージョンを描き生涯を終えています。歌川広重の絵は、日本国内ではもちろん海外でも名声を浴びています。さらに、絵画に使われている青色はとても美しく、評価の高いものです。

この綺麗な青色を海外では、歌川広重の名前を取って、ヒロシゲブルーとも呼んでいます。

東海道五十三次の総距離と移動時間


出典:写真AC

東海道は、東京の日本橋がスタートでゴールは京都の三条大橋となります。その距離は約492キロです。今でこそ車を使えば半日かからずに、新幹線を使えば3時間もあれば到着できるでしょう。しかし、当時のメインとなる移動手段は徒歩でした。

先ほども紹介しましたが、東海道の移動時間は約半月、13~15日程度かかっていたといわれています。単純に距離と日数で計算すると、1日当たり35~40キロ程度は歩いていた計算になります。人の歩くスピードは1時間で4キロ程度といわれていますので、江戸時代の人は毎日9時間程度歩いていたとなります。15日間、毎日9時間歩いて移動するとは、現代では考えられないですね。

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