「紬」という漢字は、「つむぎ」と読みます。この言葉は着物に精通している人でない限り、一般的には馴染みがない言葉かもしれません。 紬の訓読みは先に述べた通りですが、音読みをすると、「ちゅう」となります。 紬とは? 出典:写真AC 紬は織物の一つです。紬糸や紬織など、着物に関する言葉で使われており、絹織物の一つということもできます。 紬糸を使った着物のデザインは決して派手ではなく、古き良き日本を感じさせる落ち着いたものです。 紬は基本的には縞模様もしくは、絣物模様です。大正や明治の頃の着物を着た人物写真などで見ることができます。後述する大島紬は、絹によって作られています。 紬の着物の特徴 着物の素材といえば、絹や麻、ウールなどがよく知られたところですが、着物の素材としての紬は決して珍しいものではありません。紬はある一つの地域だけで限定的に生産されるものではなく、日本国内でいくつか生産箇所があるからです。 紬という名称が用いられる、大島紬は、奄美大島で生産されています。紬の中でもよく知られた名称で、高級な織物として、一般的に認識されています。 日本の伝統的な工芸品の一つでもあります。 結城紬は、茨城県の結城市や栃木県小山市で生産されています。結城紬は機械による大量生産ではなく、基本的には職人の手作業によって作り出されます。 そのため希少価値が高く、環境にも優しく生産されています。 結城紬の名刺入れを作りませんか? 紬の着物を着る場面 出典:写真AC この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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七五三や成人式、結婚式などの、晴れ舞台に欠かせない着物。今でこそ冠婚葬祭などの、行事の際にしか着られなくなりましたが、昭和の初頭までは着物が普段着として着られていました。 我々日本人にとって馴染み深い着物ですが、着物の単位として用いられているのが反です。 着物のことを反物といいますが、その呼び方は実はこの単位からきているのです。「一反」はどれくらいの長さを指すのかといいますと、幅が36センチ、長さは12メートルもあります。 このように十分な長さがあったので、江戸時代には大人物の着物が着られなくなると、子供用に仕立て直し、それが着られなくなれば、赤子のいる家ならおしめにしたり、そうでなければ雑巾にしたりと、余すとこなく着物を再利用して使っていたのです。 一反の歴史 出典:写真AC 着物の単位として知られている反は、一体いつから使われるようになったのか知っていますか? 答えは江戸時代からです。江戸時代に庶民や武士などを中心に着られていた小袖に、必要な幅や長さを一反と決めたのがはじまりです。また時代の変遷により、一反の幅や長さは変化していきました。 「反」の他に着物を含む織物単位として「疋」、「段」、「端」の3つがあります。これらの単位は、それぞれ織物によって使い分けられています。 「疋」は絹織物、「段」と「端」は麻織物に使われており、また「反」は「疋」と同様絹織物を指す単位ですが、長さは疋の半分となっています。このように着物の単位は疋や段、端、そして反の4つがあり、それらの単位は織物に応じて使い分けられてきたのです。 一反の広さ 「反」という単位は長さだけでなく、田んぼや畑などの測量する際の面積の広さとしても使われていました。 一反は300坪でおよそ31.5m×31.5m=992.25㎡の大きさです。畳で表すと600畳の広さになります。他にも面積を表す単位は「歩」「畝」「町」など様々あります。大きい順で並べると「歩
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都心から新幹線でおよそ50分、群馬県の特産品や美味しいものをご存知でしょうか? ネギとこんにゃく、パスタに釜めし、水沢うどんや焼きまんじゅう、近年ではハラダのラスクも・・・と数多くありますがその中から地元民が厳選した3品をご紹介します! 田沼屋の「元祖ひもかわうどん」 群馬県は全国4位の小麦生産地ということもあり、うどんやパスタが有名ですが近年一大ブームを巻き起こしているのが“ひもかわうどん”。ひもかわうどんとは桐生市の郷土料理で麺の幅が1.5cmから15cm以上のものまであり、見た目のインパクトも強くメディアでもたびたび取り上げられています。 古くからあるひもかわうどんですが新たにオリジナルメニューを考案しているお店もありその美味しさも話題になっています。「それはぜひ食べてみたい!」と思った方、今回はそのオリジナルメニューも絶品と評判のお店、『元祖ひもかわ田沼屋』さんをご紹介します。 過去にテレビ局の取材を受けたこともある田沼屋さん、ご主人は商社出身という異色の経歴の持ち主。うどんメニュー・そばメニュー共に充実している同店ですが、中でも目を引くのが「白帯」・「黒帯」と名付けられたひもかわうどん。 あんでぃさん(@kumhatomi)がシェアした投稿 – 2016 11月 20 2:57午前 PST ひもかわをスパイスのきいたキーマカレーで食べるもので一食の価値あり。見た目にもとても美しく日本人好みのもちもちとした食感の幅広麺と風味あるキーマカレーの組み合わせは、やみ付きになる人もいるほど。「何を食べてもハズレなし!」と評判の同店です。 また、ホームページも充実しており贈答品の注文も可能。織物の街にちなんで反物状になっている『一反御麺』は遊び心も満載で、相手の笑顔を思い浮かべ思わず贈ってみたくなる品。桐生に行くならぜひ食して頂きたい一品です。 殿様がお取り寄せ?とろとろ食感が絶品の「下仁田ねぎ」 “ねぎとこんにゃく下仁田名産”。群馬県の郷土かるた『ね』の読み札に詠われるのは別名「殿様ねぎ」と呼ばれる下仁田ねぎ。江戸時代に殿様から注文があったという事実によりそう呼ばれるようになったのだそう。 hikaruさん(@hi_ka_ru_m)がシェアした投稿 – 2016 11月 29 6:19午後 PST 江戸時代の殿様が好んで食べたほどのこの下仁田ねぎ。まだ食べたことのない方のために美味しい食べ方もあわせてご紹介します! この下仁田ねぎは群馬県甘楽郡下仁田町の特産品で、一般的な長ネギと比較すると太くて短く、加熱すると甘くなるのが特徴。年末のお歳暮時期になると日本全国へ贈答品として発送されますが、このねぎはそのまま食べると辛みが強いため生食には向かず、加熱調理によりその美味しさが最大限に引き出されます。 Dougさん(@dag_pitt)がシェアした投稿 – 2016 12月 …
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「脱サラをして起業したい!」と考えたことがある方は多いのではないでしょうか? 今回は、脱サラ起業の成功率や向いている仕事、リスクに対しても目を向けてみましょう。 脱サラ起業の成功率と手順 脱サラ起業の成功率とは 出典:Pixabay 早速ですが、脱サラの成功率はどのくらいあるのでしょうか。 実は、一般的に3~6%と言われています。 これは、企業や個人事業が10年後に存続している可能性が3~6%であるためです。中には個人事業で成功し、法人を立てたために個人事業を廃業するような場合、うまくいっていながらも諸般の事情で廃業した場合も含まれてはいますが、とても低い確率であることに変わりないでしょう。 脱サラ起業の手順・脱サラする前にやるべきこととは 出典:Pixabay 脱サラ起業の成功率は決して高くないことがわかりましたでしょうか?しかし、脱サラ前に十分な準備をすることで、成功率を高めることができるでしょう。 ここでは、脱サラ前に準備しておくと良いことを紹介します。 1、脱サラ後の生活資金を用意する 脱サラ後には、事業に必要なお金とは別に生活資金も必要になります。 「意外とお金がかかってしまった」ということにならないよう、十分な計画を立てておくことが重要です。 最低でも半年間、無収入でも問題ない生活費を用意しておくことが重要で、これがあるのとないのとでは起業の成功率も大きく変わってきます。毎月どれだけの生活費をかけているのか洗い出してみることも大事だといえるでしょう。 2、クレジットカードやローンの契約 脱サラ起業をすると、サラリーマンの頃のような毎月の安定的な収入がなくなるため、ローンなどの審査が厳しくなります。 必要なものは起業する前に、契約しておくとよいでしょう。 3、事業計画を作る 脱サラ起業をするのであれば、事業計画は重要です。 もちろん、常に計画通りに進むわけではありませんが、想定できるリスクに気づかずに失敗してしまうような場面を減らすことができます。 4、退職する時期を決める 起業をすると、時にサラリーマンとして働いていた会社が顧客となることもあります。 なるべく円満に退職できるよう、会社に迷惑のかかりにくい時期を選ぶとよいでしょう。 5、退職時に保険の手続きを行う 日本国民であれば加入義務のある、健康保険や年金などの社会保険は、しっかりと手続きを行いましょう。 健康保険には、国民健康保険と会社などで加入する社会保険があります。退職後二年間は、「任意継続」と呼ばれる形で社会保険に加入することができますが、会社負担分も全額支払うことになるので、どちらのほうが安く抑えられるか見極めましょう。 6、個人事業か法人か決める 脱サラ起業には二種類の開業方法があります。「個人事業主」と「法人」です。 …
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ひぐちしょうさん(@sho2158)がシェアした投稿 – 11月 1, 2017 at 6:09午前 PDT 岐阜の長良川や京都の宇治川などで、毎年晩春から初秋にかけて催される「鵜飼」。真夏に最も盛りあがりを見せる夏の風物詩でともいわれるこの鮎漁。なかでも長良川の鵜飼はとりわけ有名で、毎年多くの観光客が訪れる。ここでは岐阜の長良川で行われている鵜飼について説明します。 名だたる武将に気に入られ、幕府に保護された鵜飼 びっとさん(@clouds8888)がシェアした投稿 – 10月 30, 2017 at 3:20午後 PDT 鵜飼は鵜を鵜匠が巧みに操りながら、鮎を中心とした川魚を獲る漁です。中国から伝来したという説と、日本で発祥したという説がありますが、どちらが起源なのかは定かではありません。ただ、古墳から鵜飼を表現した埴輪が見つかっていることから、その歴史は非常にふるいと考えられています。 古事記や日本書紀にも鵜飼に関する記述が残っていて、中国でみつかった古文書にも鵜飼のことが書かれているのです。長良川の鵜飼は7世紀には既に始まっていたと言われていて、正倉院で保管している文書の中に鵜匠の名前が出てきます。つまり、長良川の鵜飼は1,300年以上の歴史があるのです。 また、鵜飼を単なる漁としてではなく、おもてなしとして客人に見せることを始めたのは、なんとあの織田信長です。信長の息子である信忠と武田信玄の娘が婚約した時に、信玄のもとから祝儀の品を届けにきた使者に鵜飼を見せたといわれています。 鵜匠は身分を保護?知られざる皇室との関係 武 [本気岐阜展 1/1~3/31 @岐阜城資料館]さん(@ony182)がシェアした投稿 – 10月 31, 2017 …
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出典:Wikimedia Commons 与謝野晶子も詩に詠んだことで知られるのが鹿児島指宿市の薩摩半島南端に広がる指宿温泉です。 特に有名なのは天然砂むし温泉で、これは湯温が 約80℃と高温のため、海岸に向かって地下を流れる温泉で温められた砂に浴衣1枚羽織って体を埋め、波打ち際で潮の香りとともに楽しむものです。 古くは「湯豊宿(ゆぶじゅく)」と呼ばれ、約150年前に編纂された「三国名勝図会」にも登場します。 砂むし温泉がずらりと並んでいるのは摺ケ浜で、引き潮の時に立ち上る湯煙は大変幻想的です。 また、錦江湾沿いに建ち並ぶホテルでは、温泉で洗った砂を使った砂むし温泉を楽しむこともできます。 市内のいたるところに、およそ800本もの源泉があり、1日約12万tの豊富な湯量を誇ります。 住所 〒891-0405 鹿児島県指宿市湊2丁目5番33号 アクセス 鹿児島空港よりバスで1時間40分 電話番号 0993-22-3252 日本の温泉街を巡ろう このように、日本には魅力的な温泉が数多く存在します。その数は源泉数が2万7000本以上、宿泊施設が3000か所以上と、まさに世界屈指の温泉大国といえるでしょう。 温泉地は火山帯に沿うように分布しているので、熱源が豊富で、温泉水の元となる水資源もふんだんです。このため、日本では古くから独自の湯治文化や入浴文化、そして温泉文化が育まれてきたのです。 日本の温泉地をまとめた、「温泉」記事一覧 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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勝駒は、富山県高岡市のお酒で、やさしい香りとさらっとした飲み口ながら、米のうま味が効いた食中酒にぴったりの味わいが特徴です。少人数で醸造しているため需要に対して供給量が少なく、また決して安くないお値段をしていますが、職人のこだわりが反映された、量産品にはない上質な美味しさがあります。 現在かなりの人気で、インターネットの通販ではおおよそ通常の倍といった値段のプレミアがついていることも。今回は、そんな大人気の日本酒である勝駒について、ご紹介していきます。 勝駒が美味しい理由① 良質な酒米 出典:写真AC 日本酒の原料といえばお米ですよね。実は富山県は、2013年の就業人数当たりの米生産量が全国一位という米どころなのです。そんな米どころ富山県で作られているこの勝駒というお酒ですが、「五百万石」という酒米が使われています。 この酒米は元々北陸地方で特に多く生産されているのですが、最近では東北から九州まで全国で栽培されており、日本の酒米で一番作付面積が大きいとのこと。酒造りに向いているお米、つまり酒造好適米として知られています。麹を作りやすく、もろみになっても米が溶けすぎないという長所を持っているので、全国の蔵元に人気の酒米なんだそう。五百万石という米で醸された日本酒は、淡麗でキレがよく、すっきりとしたお酒になるようです。 キリッとした辛口のお酒に仕上がる五百万石に対して、もう一つの酒米の代表、山田錦で造られたお酒は芳醇で深みのある味わいになります。二大酒米がそれぞれ対照的な特徴を持っているなんて、なんだか面白いですね。 勝駒もさらっとしていて家庭料理との相性が良いといわれていますが、まさに五百万石の味を活かした日本酒であると言えそうです。勝駒の純米酒は五百万石の頂点なんていわれているようですよ。 勝駒が美味しい理由② 美味しい水 出典:写真AC 日本酒が美味しいところは水も美味しいとよくいわれます。勝駒が作られている富山県もその例外ではなく、美味しい水が豊富な水の王国なのです。 富山県には、北アルプス・立山連峰という雄大な山々があり、この山々に積もった雪が豊かな水源の一つになっています。その雪解け水をためているのが天然の森林たちです。富山県の面積の約67%は森林で、降った雨を蓄え、浄化しながら地中に染み込ませていきます。 そんな富山県では、綺麗な水が必須といわれているわさび栽培が行われているほか、蛍の名所も多く存在しています。 良質で綺麗な水に恵まれた富山で、職人が手をかけて生まれた勝駒が美味しくないわけがありませんよね。 勝駒が美味しい理由③ 冬の厳しさ 新潟や京都、兵庫など、全国の酒どころといわれる場所は、綺麗な水と美味しいお米が有名な場所が多いですよね。それは気候の適正が大きく影響するわけですが、勝駒の蔵元がある富山県はまさに、その2つを満たしている地域であることはおわかりいただけたことでしょう。 しかし、それだけではありません。日本海側の気候特有の冬の厳しさも、勝駒を美味しくする要因になっています。日本酒は最高15℃程度の気温で発酵させなければなりません。また、雑菌の繁殖を抑えるという意味でも、富山県の厳しい寒さは日本酒造りに向いている気候と言えます。 こうした酒造りに適した気候が富山の日本酒の伝統を育み、冷房設備や製氷機が普及した現在でも大きな意味を持ち続けているのです。 日本酒度って何?|度数による味わいの違いや酸度も紹介 【青森の日本酒8選】絶品を生む秘訣は寒い気候にあり この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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「♫~は・か・た・のしお」のCMを、耳にしたことはあるでしょうか。その「伯方の塩」を製造している、愛媛県大三島の伯方の塩工場を訪ねました。 ちょっとややこしいですが、しまなみ海道を四国側から大島→伯方島→大三島と渡ります。伯方の塩工場は「伯方島」にはなく「大三島」にあり、営業日は誰でも見学することができます。 伯方の塩生誕の歴史とは 明治時代から、塩は国が専売公社で専売制にしていました。1971年「塩業近代化臨時措置法」が成立し、それまで作られていた塩田塩を一切廃止してオーストラリアまたはメキシコから輸入した天日塩を用いて「イオン交換膜法」で化学的に塩化ナトリウム99%以上の塩のみを生産するように決まりました。 これに反対した松山市の主婦たちが、自然塩存続運動を起こしました。その運動の結果「伯方塩業株式会社」が政府から自主流通の「自然塩」の製造を条件付きで委託され創業、販売に至り、「伯方の塩」が生産されるようのなったのでした。 伯方の塩は国産ではなかった? 条件として「メキシコ、オーストラリアから輸入していた源塩(天日塩)を利用すること」「平釜を使うこと」「専売塩を誹謗しないこと」などのが出されました。袋のデザインや文言までも専売公社に許可を貰わなければなりませんでした。 1997年に塩専売法は廃止され、海水からの直接製塩も認められ、2002年には完全に塩の製造、販売、輸入は自由化されて今に至ります。 伯方の塩工場・大三島 ↑工場入り口にあるチャイムがお出迎え。順番に叩くと「は・か・たの・しお♫」のメロディになります。 伯方の塩工場では、塩製造の工程が見学できます。残念ながら撮影は許可されていませんでした。 メキシコ・オーストラリア産の源塩 原料の天日塩は、オーストラリアまたはメキシコから輸入されています。その天日塩を海水で溶かし、濾過してかん水をつくります。そのあと煮詰めて、乾燥させ粗塩または焼塩がつくられています。見学窓からは、乾燥させるために積まれた迫力ある塩の山を見ることができます。 つくり方には、誕生時からこだわっており、化学薬品を一切使わず「にがり」をほどよく残すために、日本の海水でとかして、濾過した塩水を数時間じっくり「自然乾燥」そして異物を丁寧に取り除いています。 伯方の塩の特徴 ↑こちらは、見学のお土産にいただいた伯方の塩のサンプルです。 伯方の塩は、にがりを程よく残し、海水中のミネラルなどを残して風味のある塩となっています。塩味の中にほんのりとした甘さを感じることもできます。にがりが少ない塩は塩辛いだけで、にがりが多すぎると苦味が強くまずいです。食用に優れていた「流下式塩田塩」の塩をお手本にして、こだわりのある塩づくりがなされています。 流下式枝条架併用塩田の再現 工場の東側には、伯方の塩が誕生するきっかけとなった「流下式枝条架併用塩田」を再現した施設があります。1953年から1972年に全ての塩田が廃止され「イオン交換膜製法」に画一化されるまで、瀬戸内海沿岸では写真のような「流下式枝条架併用塩田」で塩が作られていました。 専売法が1997年に廃止されて、海水から直接塩をつくることが認められるようになって、塩田製塩技術継承のためにこの施設が再現されたのでした。 流下式枝条架併用塩田では、海水をポンプで汲み上げ、まずゆるい傾斜がついた「流下盤」に海水を送り水分を蒸発させます。そして丈の枝で組んだ枝状架の上方からかけていきます。 自然の風で乾かしていくことで、水分を蒸発させてだんだん濃い塩水にします。そしてできたかん水を濾過し、煮詰めて自然塩にしていくのでした。ほどよくにがりの残ったおいしい塩になります。 塩田では、係の方がていねいにこの塩田について説明してくださいました。また塩田で作られた「されど塩」のサンプルををお土産にいただきました。 伯方の塩工場では、売店で様々な「伯方の塩」製品も販売されています。 伯方の塩ソフトクリーム 伯方の塩ソフトクリームは、うっすら塩味がついたソフトクリームに、大粒のおいしい塩「フルール・ド・セル」がトッピングされています。塩味をつけることで甘みがひきたちます。 バリィさんの塩焼 ↑こちらは「バリィさんの焼塩」。今治市のゆるきゃらバリィさんは、2012年のゆるキャラグランプリ1位。このかわいいパッケージの焼塩は、この大三島工場の売店だけでしか手にはいらない限定商品です。工場見学の記念にぜひ買いたい一品! お土産にはフルール・ド・セル(塩の花) ↑こちらがお土産に買った「フルール・ド・セル(塩の花)」です。大粒の塩で歯ごたえがあります。お料理のトッピング用に最適です。 …
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お手玉の起源は諸説ありますが、最古のものは紀元前5世紀ごろ、リディア人からギリシアへ伝達された「アストラガリ」だと言われています。 後にシルクロードを通り、インドや中国へ伝わり、ヨーロッパやアジアなど世界中に広まったと考えられています。 日本に伝わったのは奈良時代の頃です。水晶や石を使っており、「石名取玉」という名前で親しまれていました。聖徳太子が使用していた石は、現在東京上野の国立法隆寺博物館で見ることができます。 お手玉の材料 出典:写真AC そのような歴史を持つお手玉ですので、材料は時代や場所によって様々です。 日本もっともポピュラーなのは小豆です。 ほかには、まるだいず、とうもろこし、そば米などが使われることがあります。珍しいものでは、巻貝やシジミの貝殻を使ったものもあり、独特の心地よい音を出します。 海外をみると、中国では日本の大豆より大きい、茶の実が使われます。ハワイではフクビという花の実を使います。最近では、ペレットというプラスチックを加工した粒が使われ、特に虫食いの心配のない球形ペレットは、世界中で使用されています。 お手玉の種類 出典:写真AC お手玉の形は、大きく分けて四つあります。 一つ目は「ざぶとん」型。底面が広く、安定した形状が特徴です。江戸末期~明治にかけて普及したもので、現在の日本で最も普及しているものです。 「お手玉大会」で使用されるのも「ざぶとん」型です。二種類の布を組み合わせるので、カラフルでかわいらしいお手玉です。 二つ目は「かます」型。穀物の入れ物である「かます」の形をしたもので、最も作りやすく、最も歴史の古い形です。 三つ目は俵型。日本人の主食であるお米を入れる俵をかたどったものです。江戸時代後半から流行りだし、現在のお手玉と同程度の重さ(40~50g)になりました。 四つ目が枕型。同じく江戸時代後半に、作られるようになりました。当時中に入れられていたのは、主にそば、ひえの実です。 お手玉の起源に関する諸説 出典:写真AC お手玉には、「振り技」と「拾い技」と呼ばれる遊び方があります。いくつかを上にあげて遊ぶのが振り技。お手玉を床に撒き、一つだけを上げながら、残りを寄せ集めたり手をくぐらせるのが拾い技です。 お手玉の歴史で見た通り、その起源には諸説があります。 冒頭で紹介したのは、元京都大学教授の藤本浩之輔氏による「紀元前5世紀説」です。古代アナトリア半島(現トルコ)のリディア人からギリシャへ伝えられた「アストラガリ」は、拾い技だったといわれています。 アストラガリは、現在の布袋に代わり、羊のかかとの骨を使って遊んでいたとされ、そのような痕跡を欧州各地の博物館で見ることができます。アジアに伝わった際には、骨の代わりに小石を使いました。 この遊びは「石なご」と呼ばれ、日本でも同様に石を使っていたと考えられています。 また、アメリカのマサチューセッツ工科大学の研究によれば、最も古いお手玉遊びは古代エジプトにあるとされます。 約4,000年前の古代エジプト壁画に、お手玉のような遊びをする様子が描かれています。 現代の日本では、「日本お手玉の会」により、1992年に9月20日がお手玉の日と制定されました。この日、愛媛県で全国お手玉遊び大会が初めて開かれ、日本のお手玉遊びの文化の継承に大いに貢献しています。 【守り続けられた粋なお座敷遊び】投扇興の遊び方と歴史|体験できるスポットも 【男なら一度はしてみたい?】芸者と遊ぶ「お座敷遊び」の魅力とルール この記事が気に入ったら …
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平塚、藤沢、戸塚、保土ヶ谷…という一連の土地名、どこかで聞いたことはありませんか?「東海道五十三次」の宿場の名前です。 「東海道五十三次」という言葉はよく聞きますが、実際にどんな順路をたどるのか、どんな宿場町がありどんな風景が見られるかは、交通機関の発達した現代では知られにくくなっています。 浮世絵にも描かれた宿場町、東海道五十三次の魅力を解説します。 東海道五十三次とは? 出典:パブリックドメインQ 東海道五十三次は浮世絵のタイトルでよく聞きますが、そもそもは東海道にある53の宿場を指す言葉でした。江戸時代に整備された道は大きく5本あり、そのうちのひとつが東海道です。さらに東海道は、江戸から京都を結ぶ道で当時の主要都市2カ所を結ぶ重要な道でした。 昔は今ほど交通機関が発達していませんでしたので、江戸から京都まで移動するために半月も時間が掛かりました。そのため、東海道の間には53もの数の宿場町ができました。この数を取られて東海道五十三次と呼ばれるようになりました。そして、東海道五十三次には名所がいくつもあり、絵画としてよく描かれていました。 有名な浮世絵で描かれている東海道五十三次もこの宿場町にある名所を描いたものとなっています。この東海道五十三次は、歌川広重といわれる浮世絵師の手によって描かれています。よく勘違いされがちですが、東海道五十三次は53の宿場とスタートの日本橋とゴールの京都を描いているので計55枚となります。 東海道五十三次を描いた浮世絵師・歌川広重とは 歌川広重は浮世絵師として有名ですが、若いころは火消し(今でいう消防士)と兼業で絵を書いていました。35才になると息子が成人になり、火消しの仕事を譲って絵師として専門で働くようになりました。 同じ年に幕府からの依頼で、東海道を往復する機会ができました。このときに見た風景を活かして、東海道五十三次を描いたとされています。歌川広重は東海道五十三次が名声を浴びたおかげで、風景画家としての地位を確保しました。 その後も江戸の名所や、東海道五十三次の別バージョンを描き生涯を終えています。歌川広重の絵は、日本国内ではもちろん海外でも名声を浴びています。さらに、絵画に使われている青色はとても美しく、評価の高いものです。 この綺麗な青色を海外では、歌川広重の名前を取って、ヒロシゲブルーとも呼んでいます。 東海道五十三次の総距離と移動時間 出典:写真AC 東海道は、東京の日本橋がスタートでゴールは京都の三条大橋となります。その距離は約492キロです。今でこそ車を使えば半日かからずに、新幹線を使えば3時間もあれば到着できるでしょう。しかし、当時のメインとなる移動手段は徒歩でした。 先ほども紹介しましたが、東海道の移動時間は約半月、13~15日程度かかっていたといわれています。単純に距離と日数で計算すると、1日当たり35~40キロ程度は歩いていた計算になります。人の歩くスピードは1時間で4キロ程度といわれていますので、江戸時代の人は毎日9時間程度歩いていたとなります。15日間、毎日9時間歩いて移動するとは、現代では考えられないですね。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう