日本古来から伝わる武術の一つである「弓道」は、日本国内のみならず、海外でも注目を集めるスポーツとなりました。弓道の歴史や動作、ルールなどをご紹介します。
弓道の流派とは?
出典:ウィキメディアコモンズ
弓道には、古来から伝わる流派が数多く残っています。 その系統は、おもに2つ。礼儀作法を重んじる「礼射系」と、より実戦的な技術を磨く「武射系」に分かれています。
礼射系を代表する流派が、小笠原流です。源頼朝の弓馬師範であった小笠原長清の考案によるもので、礼法や馬術もふくめ、多くの武家で作法として用いられてきました。
一方、武射系を代表するのが日置流です。室町時代に、日置弾正正次が開いたと伝えられています。小笠原流が馬上の弓術をもとにしているのに対し、こちらは徒歩の弓術から生まれています。
そして、この日置流に礼射系の技術を取り入れたのが本多流です。明治時代の弓術師範、本多利實によって確立され、大正から昭和にかけて広まっていきました。
現在では、この本多流に近い射法が、全日本弓道連盟によって基本と定められています。 ほかの武道とは異なり、特定の流派に所属していない弓道家が数多くいるのも特徴です。入門せずに名乗ることもできるため、師範の流派をそのまま受け継ぐこともよくあります。
弓道はいつから始まったのか
出典:ウィキメディアコモンズ
弓道は日本古来の武術で、もともとは弓術といいました。 弓矢はすでに弥生時代には使用されていたと考えられています。
奈良時代になると、中国文化の影響で、奉納や神事にも用いられるようになりました。武士が活躍する鎌倉時代には、馬上から犬や的を射る、犬追物、笠懸といった競技もさかんに行われるようになります。 戦国時代に鉄砲が伝来すると、弓術は実戦的なものではなくなり、精神をきたえるという側面が強くなっていきます。
江戸時代には、三十三間堂の通し矢で多くの射手がその腕を競いました。 しかし、幕末に西洋式の軍隊や兵器が取り入れられると、弓術はすっかり廃れてしまいます。 ふたたび注目されるようになったのは、明治中ごろのこと。初等教育や徴兵制度に役立つとして、政府が武術を奨励したのがきっかけでした。
明治28年(1895)には、京都の平安神宮に大日本武徳会を設立。大正8年(1903)に武術専門学校が武道専門学校とあらためられると、それに合わせて「弓道」の名称が用いられるようになります。 昭和9年(1934)には、技術や作法を「弓道要則」として統一。
しかし、各流派の間を取ったような内容は、批判の的にもなります。 太平洋戦争下ではますます武道全般が奨励されますが、戦況の悪化にしたがい活動自体が困難になってしまいます。 戦後はGHQにより武道が危険視され、大日本武徳会も解散に追い込まれます。
しかし、地方での地道な普及活動が実り、昭和24年(1949)にのちの全日本弓道連盟となる日本弓道連盟を設立。1953年にはそれまでの弓道要則を廃止して、新しい指標として弓道教本をまとめています。 その後、数十年かけて四巻まで編纂され、これが現代の弓道の基礎となっています。