出典:田島硝子 田島硝子の富士山グラスはグラスの底にデザインされている富士山が、注がれた飲み物によってさまざまな色に変化するロックグラスです。 ウイスキーで黄金富士、赤ワインで赤富士などお好みの飲み物でグラスの富士山が美しく揺らめきます。田島硝子の富士山グラスは「おみやげグランプリ2015」で観光庁長官賞を受賞すると、中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」で口コミが広がり、中国本土、香港、その後台湾でも話題となりました。 出典:田島硝子 日本でもテレビ番組に取り上げられると注文が殺到し、知る人ぞ知るヒット商品となっています。 また、富士山グラスはオプションでグラスに名入れや木箱にメッセージを入れることもでき、プレゼントに最適な逸品となっています。 田島硝子って? 出典:田島硝子 富士山グラスを製造している田島硝子は、1956年東京都江東区に硝子食器製造工場として田嶌松太郎氏によって創業され、業務用のタンブラーやワイングラスの製造を開始しました。 以来、半世紀にも渡り熟練した職人の手づくりによる江戸切子メーカーとして、日本の手づくりガラスの魅力と文化を継承しています。 田島硝子のガラス製品は確かな製品開発力や技術力のもと生産され、現在では他工房へもデザイナーや硝子生地の供給を行うほか、第三回東京都チャレンジ大賞も受賞し、硝子素材を熟知したメーカーとして、日本のものづくりに貢献しています。 田島硝子も手がける「江戸切子」とは 出典:田島硝子 田島硝子も手掛ける江戸切子は、江戸時代に英国製のカットグラスを参考に表面に彫刻を施したのが始まりとされます。 明治時代になると英国人の技術指導によって西洋式のカットや彫刻技法が導入され、精巧なカットの技法が確立されました。 江戸時代には透明なガラスだけでしたが、現在では、色被せ(いろきせ)ガラスを使った製品が主流です。 切子はガラスの表面に金属製の円盤や砥石などによって模様を切り出す技法で、菊や麻の葉といった植物をはじめ、篭目や格子などの伝統的な生活用具を図案化した模様を組み合わせて作り出されます。 この模様は非常に精緻なものですが、下絵がガラス面に引かれることはなく、職人の経験を積んだ目と熟練した技によって削り出されます。 江戸切子と薩摩切子、その違いをご紹介します。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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みなさんは「迸る(ほとばしる)」という日本語の正しい意味・使い方をご存知でしょうか? 例えば、「熱い血潮が迸る(ほとばしる)」のような言い方があります。では、実際に迸るの意味や使い方、由来を見ていきましょう。 【意味】 「一気に噴き出る」「飛び散る」「流れ飛ぶ」 【由来】 火のように熱い女性器から、尿が勢いよく飛び散る様子から。 【類語】 「奔流(ほんりゅう)」「横溢(おういつ)」「溢れるような」「はち切れんばかりの」「勢いよく出る」「噴き出す」 【対義語】 「滞留(たいりゅう)」「停留(ていりゅう)」「途絶」「杜絶」 【英訳】 「gush out」「spout」 以下では迸るについて詳しくご紹介していきます。 「迸る」はどう読む? 出典:写真AC 「迸る」。なにかの動詞であることは見れば明らかですが、この漢字を読むことができますか?「迸」という、JIS第二水準の字自体に、そもそもなじみがないかもしれません。漢字検定1級レベルの読みですので、読めなくても恥じることはありませんが、「迸る」は「ほとばしる」と読みます。 ワープロでは変換される言葉です。頻繁には使わない言葉かもしれませんが、ひらがなで書けば、その意味、イメージはおおむね掴めるのではないでしょうか? では、「迸る」という動詞はどういう時に使うのでしょう。 「滝の水が迸る」「焼き鳥から肉汁が迸る」「思いが口から迸る」「火口から溶岩が迸る」などと用います。もちろん、これらの使い方には共通項があります。言葉の使われるシーンとそのイメージを掴んでみましょう。 迸るの意味とは 出典:写真AC 「迸る」の意味は、「一気に噴き出る」「飛び散る」「流れ飛ぶ」ということです。特に、液体が飛び散る様子を描写するには最適の言葉でしょう。勢いよく飛び散る様を描写するのであれば、液体に準じて、人の言葉が溢れ出す状況で使ってもいいわけです。 字をよく見てみますと、「迸」は、しんにょうと、「併」という字にも使われるつくりでできています。つくりのほうには、一般的な名称はありません。しんにょうには「どこかへ行く」という意味が、「併」のつくりの部分には、「合わさる」という意味があります。 「合わさったものがどこかへ行く」というのが「迸」の漢字の意味です。 迸るの言葉の成り立ち 出典:写真AC 「ほとばしる」という言葉を聞くと、複合語のようなイメージを持たないでしょうか? つまり「ほと」と「走る」とが合わさってできた「ほと走る」のような気がします。これはそのとおりです。 「ほと」は古事記など神話に出てきますからご存知かもしれませんが、「女性器」のことで、「火所」や「炎処」と書き、火のように熱い場所を示します。ほとばしるとはもともと、火のように熱い女性器から、尿が勢いよく飛び散る様子から出ている言葉なのです。そうして時代とともに変化していき、今の意味になりました。 下品な由来だと思うかもしれませんが決してそうではなく、むしろ、生き生きとした生命力、力強さを感じるのではないでしょうか。漢字の「迸る」よりも、大和言葉らしい「ほとばしる」のほうが、その意味では相応しいかもしれません。 …
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現在の食生活の中で欠かすことができない存在となった小麦粉ですが、薄力粉が小麦粉と同じ分類であることや、小麦粉が薄力粉、中力粉、強力粉に分けられることを漠然と理解している方は意外と少なくないようです。 幾つかに分類される小麦粉にはそれぞれ特性があり向いている使用用途が違ってくるので、少なくとも小麦粉と薄力粉の関係は正確に掴んでおくべきだと言えるでしょう。 小麦粉の種類と特徴を掴んでおけば料理を行う際に使い分けることによって、より美味しく美しいものを作りだすことが可能になります。 小麦粉とは小麦を原料に作られた粉の総称で薄力粉、中力粉、強力粉などの小麦粉も全て小麦粉として扱われます。 中力粉や強力粉を使用する場合はどれを使うのがベストなのかを強調するためにレシピには表記されますが、薄力粉に関しては一般家庭に最も普及しているものという前提の下に薄力粉という表記を使わずに単に小麦粉と表記される場合が多いと考えられます。 小麦粉といえば!薄力粉の特徴 出典:写真AC 日本国内で最もポヒュラーな小麦粉である薄力粉は、既に紹介した3種類の小麦粉の中で最も粘りが少ないものだと言えます。粘りの元となるグルテンの含有量が少ないため軽い仕上がりとなるのが特徴だと言えるでしょう。 小麦はタンパク質の含有量の違いによって硬質小麦、中質小麦、軟質小麦に分けられます。 薄力粉は軟質小麦を使用して作られる小麦粉のことで、タンパク質の含有量が8.5%以下のものが一般的に薄力粉と呼ばれています。 小麦粉に含まれるタンパク質は粘りの元となるグルテンを指しますので、薄力粉は一般的な小麦粉の中で最も粘りの少ないものだと言えるでしょう。 薄力粉の主な使用用途は、クッキーやスポンジケーキなどのお菓子作りの他に天婦羅やムニエルの衣など粘りが不必要な軽い仕上がりを求めるものに用いられます。 西洋で最もポピュラーな小麦粉、中力粉の特徴 出典:写真AC 日本国内で最もポピュラーな小麦粉は薄力粉ですが、「All purpose flour:万能粉」とも呼ばれる中力粉はアメリカなども西洋では比較的ポピュラーな小麦粉となります。中力粉はグルテンの含有量が薄力粉よりは多いものの、強力粉よりは少ない小麦粉のことです。 特徴としては薄力粉と強力粉の間に位置する中力粉は、中質小麦を使用して作られタンパク質の含有量が8.5~10.5%の小麦粉を総称して中力粉と呼びます。 薄力粉のタンパク質含有量の上限が8.5%以下ですが、タンパク質が多目の薄力粉と少な目の中力粉は非常に似た特徴を持っていると言えるでしょう。 日本では一般的に中力粉はうどん粉とも呼ばれ、うどんや中華麺を手打ちする場合やお好み焼き、餃子の皮などを作るのに適した小麦粉だと言われています。 メリケン粉とは小麦粉の別名?メリケン粉の呼び名の由来や歴史 【食べられる耳?!】栃木県の郷土料理「耳うどん」の発祥と名店を紹介 パン職人の仕事を紹介|気になる年収は?個人で店を持つには? この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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国宝に指定されているお城は全国でも5つしかありません。そして、そのひとつが彦根城です。また、誰しもが知っているひこにゃんは、ゆるキャラの元祖と言っても過言ではありません。このように彦根は古いものと新しいものの融合が魅力的な街です。 また、圧倒的な知名度を誇る彦根城のほか神社仏閣などが集中しており、見どころの多い観光地となっています。そんな彦根に行ったときの土産として最適な、伝統的な和菓子屋、いと重菓舗について紹介します。 いと重菓舗と彦根城の歴史 1600年の関ヶ原の戦いの後、この地域を与えられた井伊氏によって築かれた彦根城は400年以上もの伝統を誇る日本国内でも有数の城です。日本各地に城は残っていますが、そのほとんどが火事などで消失している一方、彦根城は天守が現存しており国宝にも指定されています。 第13代藩主であった井伊直弼は江戸幕府の大老をつとめ、幕末にはアメリカとの修好通商条約締結に貢献し、今では歴史上の人物として欠かせない存在です。しかし、実は若い時期には藩主としての継承順位が低く、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれている屋敷で、文武を極めるべく、禅やお茶、学問に没頭しました。その屋敷名にちなんで名付けられたのが、いと重菓舗の代表的なお菓子である埋れ木です。 彦根発祥の和菓子屋さんであるいと重菓舗の歴史は古く、文化6年(西暦1809年)までさかのぼります。創業者の糸屋重兵衛が現在の名前の由来となっており、200年以上もの伝統があります。 いと重菓舗が創業した約6年後に井伊直弼は誕生しており、茶道にも造詣が深かったことからお茶菓子として実際に現在も売られている「益寿糖」「柳のしずく」などに関わっていたとされています。 井伊直弼も食した彦根のお土産におすすめの和菓子 200年以上もの伝統がある中で、益寿糖は当時から同じ製法で作られているお菓子で、求肥に和三盆をまぶして作られています。シンプルで素朴な外観で、当時の井伊直弼も嗜んだようにお茶菓子としても最適です。こちらは現在のところ予約販売のみとなっているので、購入したい場合には、1週間ほど前までに予約が必要です。 また、柳のしずくは井伊直弼が自ら木彫りの型に文様を刻んで落雁を作っていた歴史から、当時そのままの文様を使用して作るお菓子です。現在ではバターや餡を使用した風味豊かなお菓子となっており、井伊直弼の時代の古くから伝わる伝統と新しい技術を応用したお菓子となっています。 彦根のお土産といえばいと重菓舗の「埋れ木」 当時より井伊直弼と非常に関わりの深かったいと重菓舗ですが、お菓子作りへのこだわりはその当時より変わらず継承されています。北海道産の原料を使用した自家製の餡に、徳島県原産の厳選された和三盆、そして地元彦根の卵をたっぷりと使用して作られており、外観だけではなく味わいの豊かさも追求しています。 創業当時から伝わる益寿糖や柳のしずくも人気ですが、一番人気の商品が埋れ木です。埋れ木は、甘さ控えめの白餡を求肥で包み、さらに抹茶と和三盆を混ぜて作られた砂糖をまぶしたお菓子です。まずはじめに、抹茶の香りが感じられ、ほろりととろける食感があり、続けてしっとりとした風味豊かな白餡があらわれる埋れ木は、旅のお土産としてもお茶菓子としてもオススメです。様々な香りと食感、風味が一度に楽しめ、煎茶や抹茶などお茶の香りも引き立てます。 彦根旅行のお土産に いと重菓舗のお菓子はどこで手に入るか いと重菓舗のお菓子は、彦根市内や滋賀県内の各種お土産ショップで購入することができます。そして彦根城観光の後に立ち寄りたいのが、いと重本店と井伊直弼との歴史に触れることのできる、いと重ギャラリー店、そしてカフェも併設された、いと重駅前通り店です。それぞれ伝統的な彦根の家屋風の作りとなっており、彦根城の余韻を楽しむことができます。 歴史を感じるお土産として 国宝である彦根城を要する彦根由来の、いと重菓舗のお菓子は、この地に根付く歴史の片鱗を垣間見ることができるお土産として最適です。旅の思い出話とともに、大切な方に送ってみてはいかがでしょうか。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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「銘仙」とは、蚕からとれる糸で作られる平織りの絹織物のことです。特に埼玉県秩父地方を原産とする秩父銘仙は地域の産業の主軸になるほどで、その大胆でモダンな柄が近年になって女性の人気を誘い、話題になっています。秩父銘仙の起源、技術、魅了などを紹介します。 秩父銘仙とは 出典:染織りの郷 ちちぶ銘仙館 秩父銘仙は、埼玉県秩父市を発祥とする伝統の絹布を使った養蚕・機織り産業です。その起源は、知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を教えたことと言われています。 元々秩父は農業に向かない環境であった事から養蚕が盛んでした。蚕からとれる繭の中でも規格外の大きさのものを使って作られた「太織」という野良着が後に名を変え、秩父銘仙となったのです。 秩父銘仙という名前になってからは「ほぐし捺染」の技術が生まれたことにより、従来以上に派手なデザインの織物が作られるようになりました。この華やかな布を使った着物が昭和初期に女性に人気になったことがきっかけで、全国に広まっていったのです。 秩父銘仙の技法 出典:染織りの郷 ちちぶ銘仙館 秩父銘仙の特徴となるのが「ほぐし捺染」という技法です。これは職人の手作業によってひと型ずつ型染めを施すというものです。この捺染という技法の特徴として、型紙を移動させながら丁寧に色を重ねていくというのがあります。 色が複数ある時はその分色を重ねていくことになります。布ではなく糸に色を染めていくことになるので、裏表とも同じような染め上がりになり裏表ができないのがポイントです。秩父銘仙の精錬と染色法は浸染と呼ばれ、染料のみを使って染める事になっています。 秩父銘仙の柄 朝の連続ドラマを見ていると、大正期の女性が花柄など大胆なデザインの着物を着ていることに気づきませんか。実はあれも銘仙なのです。従来の着物に多い縦縞や矢柄などのシンプルな柄とは異なるデザインに惹かれて、銘仙の購入を検討する人も存在します。 秩父銘仙の柄は若年層から年配層まで、幅広く支持されています。緯糸に捕食を用いることで角度を変えると玉虫色の光沢が出る特有の生地感に、植物柄などが多いのが秩父銘仙の特徴になります。 秩父銘仙後継者育成講座について 出典:染織りの郷 ちちぶ銘仙館 多くの伝統産業と同じように、秩父銘仙もまた後継者不足に悩まされてきました。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、長い歴史のある秩父銘仙を途絶えさせるのは大きな損失です。そこで現在は、定期的に秩父銘仙後継者育成講座を開いて秩父銘仙の後継者を育てようという努力も行われています。 秩父銘仙後継者育成講座では生徒を全国から募集して毎月第2、第3、第4土曜日に秩父銘仙の制作実習を行います。期間は2年間となっており、本気で秩父銘仙の技術を継承したいと思っている人が受講しています。秩父銘仙の後継者になりたいと思っているなら、この秩父銘仙後継者育成講座を受けるのが一番の近道になります。 募集人員は10名程度なので、誰でもこの講座に申し込んで受講できるわけではありません。しかし国指定の伝統工芸品にも認定されている秩父銘仙の歴史を次世代にまで継承していくことに興味がある人にはおすすめできる講座になります。 秩父銘仙の魅力 kmn_jmさん(@kmn_jm)がシェアした投稿 – 2月 24, 2018 at 6:38午前 PST …
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関東圏内の職場体験ができる事業者名、業種、内容、場所、料金の一覧と、各リンク先から体験内容の詳細を閲覧することが可能です。 事業者名 業種/内容 所在地 体験時間 体験料金 URL ピアノ工房PIAPIT ピアノ調律師 千葉県印西市浦幡新田 6 ¥8,000 https://cocoromiru.jp/plans/1 大川木工所 小田原漆器/木地師 神奈川県小田原市南板橋 4 ¥9,800 https://cocoromiru.jp/plans/10 向山楽器店 三味線職人 東京都江戸川区平井 6 ¥67,500 https://cocoromiru.jp/plans/22 株式会社松根屋 扇子、うちわ作り 東京都台東区浅草橋 3 ¥5,600 …
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水墨画は、墨の濃淡だけで描かれる奥深い芸術です。3分で読めるこの記事では、中国で生まれ、日本で独自の発展を遂げた水墨画の歴史をわかりやすく解説します。専門家でなくても理解できるよう、時代の流れに沿って水墨画の魅力を紹介していきましょう。 水墨画の歴史:起源と発展 水墨画は、東アジアを代表する伝統的な絵画様式です。墨と水だけで世界を表現するその技法は、時代とともに深い発展を遂げてきました。 中国における水墨画の誕生(唐・宋時代) 水墨画の歴史は、中国の唐代(618-907年)に始まります。当初は仏教絵画の技法として発展し、宋代(960-1279年)には文人画家たちによって芸術性が高められました。特に、「山水画」と呼ばれる風景画が人気を集め、著名な画家である范寛(はんかん)は、墨の濃淡だけで雄大な山々を表現しました。 技法と画材の確立期(元時代) 元代(1271-1368年)になると、水墨画の技法が大きく発展します。「墨法(ぼくほう)」と呼ばれる技法体系が確立され、以下の基本的な表現方法が生まれました: 濃墨:深い黒を表現 淡墨:薄い灰色を表現 破墨:濃淡を組み合わせる技法 渇筆(かっぴつ):乾いた筆で描く技法 日本における水墨画の歴史 中国から伝来した水墨画は、日本で独自の発展を遂げ、より繊細で簡素な表現が生まれました。 禅宗と共に伝来した水墨画 鎌倉時代(1185-1333年)、禅宗の僧侶たちによって水墨画が日本に伝えられました。最初は寺院での修行の一環として描かれ、簡素な表現に重きが置かれました。 室町時代の水墨画の黄金期 室町時代(1336-1573年)は日本の水墨画が最も栄えた時期です。足利将軍家が水墨画を保護し、多くの優れた画家が現れました。 水墨画の大成者:雪舟とその影響 雪舟(1420-1506年)は、日本水墨画の最高峰と称される画家です。中国で学んだ技法を日本的な感性で昇華させ、独自の画風を確立しました。代表作「天橋立図」では、日本の風景を中国の山水画の技法で表現し、新しい水墨画の可能性を示しました。 水墨画の基本技法の確立 水墨画の魅力は、シンプルな道具で多彩な表現ができることにあります。 墨の濃淡による表現方法 墨の濃さを使い分けることで、以下のような表現が可能です。 にじみ:水加減で生まれる自然な表現 かすれ:筆の動きで生まれる質感 ぼかし:濃淡の微妙な変化 伝統的な画材と道具 水墨画に必要な基本的な道具は以下の4つです。 筆:太さの異なる数種類 墨:固形墨と液体墨 …
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出典:写真AC 長野県の地獄谷温泉は、スノーモンキーと呼ばれる、温泉に浸かる猿が有名な観光地です。世界でも、温泉に浸かる猿というのはここだけです。トリップアドバイザーなどの評価が高く、山奥で交通不便な立地にもかかわらず、外国人観光客の大変な人気を集めています。冬季の平日は、外国人観光客が過半数を占めているほどです。 猿の入浴する地獄谷温泉は、地獄谷野猿公苑という自然テーマパークの一角にありますが、職員の撮影した写真が、アメリカの「ネイチャーズ・ベスト国際写真コンテスト2006」でグランプリを受賞して以来、一目注目を集めるようになったのでした。 長野オリンピックのハーフパイプ会場が近くの上林温泉にあり、各国のメディアが地獄谷温泉に浸かる猿をこぞって取り上げたのも大きかったようです。 地獄谷温泉へのアクセス 長野県でも屈指の名湯である、湯田中温泉、渋温泉を抜けて、さらに元有料道路で快適に走れる草津道路(国道292号線)を東に向かいますと、上林温泉があります。12月から4月までの冬季は、猿の入浴を楽しむためにはオンシーズンですが、この期間に地獄谷温泉に行くためには、上林温泉にある地獄谷野猿公苑の駐車場に車を止め、山道を30分歩かなければなりません。 装備はきちんとしておいたほうがよく、スノーブーツをレンタルして入山するのがお勧めです。地獄谷野猿公苑の冬季の開苑時間は9時頃から16時頃と、生き物相手のため「頃」が付いているのがユニークです。 入苑料金は大人800円、子供400円です。年間パスもあります。人間の泊れる温泉宿は、一軒宿の秘湯、「後楽館」だけです。 後楽館は、囲碁界の巨人、木谷実、呉清源の両棋士が滞在して、昭和初期に大流行した「新布石」を開発した宿でもあり、囲碁ファンの訪問も多いです。日帰り入浴はありませんので、入浴したい方は上林温泉や渋温泉に立ち寄りましょう。 地獄谷温泉で猿が温泉に入り始めた理由 出典:写真AC 地獄谷温泉のある地獄谷野猿公苑は、もともと猿が野に降りてきて、長野のリンゴ農家に被害を与えるため、この対策として誕生したものです。猿と人間との共生を図るため、猿を餌付けして開苑したのでした。 ここの開苑がなければ、地獄谷温泉の猿たちは、林野庁の許可に基づき駆除されていたのです。もっとも人間が行ったのは餌付けと公苑の整備までで、温泉に入るようになったのは、猿たちの自主性によるものでした。 好奇心旺盛な子ザルが、最初に後楽館の、もちろん人間用の温泉に入ったのです。猿の世界、特にオスは保守的なので、新たな行動を始めるのはだいたい子供と決まっています。子ザルの行動を大人のメスザルが真似するようになり、徐々に温泉に浸かる猿が増えていきました。 大人のオスはほとんど入浴しないとのこと。現在、衛生面から猿専用露天風呂が整備され、観光客が眺めるのはこちらです。 【「粋」編集部厳選の温泉街!】名湯から知る人ぞ知る秘湯まで、国内の温泉街10選 【群馬の温泉9選】日本一の温泉数を誇る北関東の名湯を紹介 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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出典:flickr 大きな窓から大鳴門橋と鳴門海峡が一望できる、道の駅うずしおレストランのメニューを見てみましょう。 淡路島付近ではマグロやカツオは獲れませんが、鰆(さわら)、真鯛、太刀魚(たちうお)などの白身魚が特産品です。強い潮の流れと豊富な餌で育ったこれらの魚は、高級品とされています。 海の幸の人気メニューとしては、白身魚のおいしさをふんだんに詰め込んだ「白い海鮮丼」が挙げられます。取れたての魚を使うため、毎日内容が異なりますが、しらすや鯛なども贅沢に詰め込んだ、贅沢な一品です。 白い海鮮丼は、ごはんと刺身が別盛りとなっているので最初は地魚を醤油で楽しみます。その後に海鮮丼にして特製のゴマ醤油をかけて食べるのが白い海鮮丼を存分に楽しめる味わい方です。 夏は、関西で夏の高級魚として知られる鱧(はも)を贅沢に使った鱧づくしも人気です。淡路島で育った鱧(はも)は食べると別嬪(べっぴん)になることから「べっぴん鱧」と名付けられています。このべっぴん鱧が食べられるのは6月~9月までとなっているのでご注意ください。 お刺身が苦手な方もご安心ください。地元の漁港で水揚げされた新鮮な魚を、焼き魚か煮魚の定食として食べる「第六うずしお丸定食」がお勧めです。 出典:flickr 魚以外で、淡路島の恵みを味わえるグルメとしては、最近非常に人気の高い淡路牛の料理があげられます。 「ミスジ、ハネシタ、サンカク、ヘレ、ロース」などから4種類を炙って味わえる、「赤い炙肉丼」をぜひお試しください。焼いてそのまま、ご飯と、卵かけごはんなど、おいしいお肉の味を贅沢に堪能できます。 ローストビーフをたっぷりご飯に載せ、玉ねぎも盛ったメニュー「淡路牛鉄火丼」もおすすめです。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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着物というと正装やきちっとした場所で着るものという印象を持っている方が多いと思います。ですが、中には日常生活で着ることができる普段着用の着物があるというのをご存知でしたか。 すぐに着ることができ、ちょっとした外出の際にも着ていけるのが普段着の着物です。個性を出しながら日本人らしさも出せる、そんな普段着としても使える着物の魅力とコーディネートの一例を紹介していきます。 普段着で着物を着るメリット 出典:写真AC 和装を普段着に用いることによるメリットは数多くあります。 まずは着回しがしやすいという点です。一着の着物でも、帯を変えるだけでがらりと雰囲気を変えることができ、長く着ることができます。さらに着物にはトレンドというものがあまりなく、流行に遅れるということがありません。そのためいつまでも着ることができます。例えば一度手に入れれば10年間着続けるということも可能なのです。 また着物には、洋服には無い色使いや模様が多数存在しています。いい洋服がない、飽きてしまったという人こそ普段着着物に挑戦するのがおすすめです。 そしてもう一つのメリットが、周囲の見る目が変わるということです。着物で歩いている人を見かけるとそれだけでなんだか綺麗で、他の人とは違ったインパクトがありますよね。すると周囲の見る目も変わってきます。 このような体験ができるというだけでも、着物を普段着に取り入れてみる価値があります。 出典:写真AC また、「着物を着ながらダラッとする訳にはいかない」と自分自身を引き締めてくれる効果が着物にはあります。帯を締めることにより体全体が引き締まり、綺麗な姿勢が保ちやすくもなります。 着物といえば高価なイメージがありますが、実は安価な普段着用に着られる着物も数多くあります。中には洗濯機で洗えるものもあり、そういったものならば1着数千円で購入することができます。 普段着着物は本当に普通の服と同じように活用できるように考えられています。そして普段着用着物ならば着付けも簡単です。一度覚えてしまえば自分一人で着られるので、ちょっとしたお出かけにも着物で出かけることができますよ。 昔は日本人の普段着が着物だった 出典:写真AC 日本人は昔から着物を普段着として活用していました。そういった時代は、戦後である1960年代まで続いていました。 そこから徐々に海外の文化が取り入れられ、着物を普段着として着る人は減ってしまいました。 5~60年前までは普通に着物は普段着として用いられていたのです。着物を着るのにルールはありません。何と組み合わせてもよく、ワンピース等と同じ様な感覚で着ていける、それが普段着着物なのです。 長い歴史を見たら、日本人は洋服よりも着物を着ていた歴の方が長いのです。そう考えると、着物を着るハードルが意外に高くない気持ちになりますね。 着物を普段着として着る時の注意点 出典:写真AC そんな普段着の着物ですが、覚えておく必要のある注意点もあるので紹介していきます。 まず普段着着物とフォーマルなシーンで着る着物は別物だということを覚えておきましょう。結婚式などに赴く際に和装をする場合には普段着着物ではなく、振り袖や訪問着など別の着物を用意してください。 そして動きやすいとも言えないので長時間歩いたり、運動をしたりするような際にも残念ながら向いているとは言えません。しかしそれ以外ならば着ていても問題ないのが普段着着物です。カジュアルに着こなしていろいろな場面で普段着用の着物を活躍させましょう。 次のページでは、普段着の着物コーデを紹介します。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう