400年以上の歴史を持つ歌舞伎は日本の伝統芸能の一つとして今も継承され続けています。1965年には重要無形文化財に登録され、幅広い客層から親しまれています。
歌舞伎の演舞中に「よっ!○○屋!」という掛け声が客席から上がります。では、この「○○屋」とはいったい何でしょうか?今回は、歌舞伎役者の屋号の由来やルーツを見ていきましょう。
屋号とは?
出典:ウィキメディア・コモンズ
屋号とは、名字を名乗ることが許されていなかった商人や農民が、名字の代わりに名乗る家ごとにつけられた呼び名のことで、その多くは地名や職業に「〜屋」をつけたもので、「紀伊国屋」や「越後屋」、「鍛冶屋」や「紺屋」、「油屋」などが挙げられます。
歌舞伎役者は江戸時代のはじめごろまでは、河原者とさげすまれた身分でした。人気の高まりとともに地位も上がり、やがて幕府によって商人と同じように表通りに住むことが認められるようになると、歌舞伎役者でも屋号で呼ぶならわしが定着していきました。そうして、民衆の間でもその呼び名が広まり、歌舞伎役者にとっては看板ともいえる大事なものとなっていったのです。
今回は、歌舞伎役者の屋号の由来やルーツを見ていきましょう。
屋号の由来・ルーツその1【成田屋】
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成田屋の当主は代々、市川團十郎の名跡を受け継いでいます。 平成25年(2013)に十二代目市川團十郎が亡くなってからは、息子である十一代目市川海老蔵が当主をつとめており、その活躍は歌舞伎のみならず、大河ドラマの主演をはじめ、数多くのテレビドラマや映画、CMなど多岐にわたり、現代の一大スターとなっています。
初代市川團十郎は、現在につながる歌舞伎の様式を確立したといわれています。 その初代が成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、見事に二代目團十郎となる子供をさずかりました。その感謝をあらわすため、元禄八年 (1695)に「成田不動明王山」を上演。これが大当たりとなり、客席からは多くの賽銭とともに「成田屋」の掛け声が飛びました。
これが成田屋をふくめ、歌舞伎の屋号のすべての始まりとなっています。 このような歴史から、成田屋は市川宗家としてもっとも権威ある屋号となっています。
屋号の由来・ルーツその2【高麗屋】
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高麗屋の九代目松本幸四郎は、現代劇のドラマ主演をはじめ、ミュージカルなどにも幅広く出演する名優です。
息子の七代目市川染五郎も、数多くのドラマや映画で一般にもよく知られた存在で、平成30年(2018)には息子に名跡を譲る形で、それぞれニ代目松本白鸚と八代目幸四郎を襲名しています。
松本幸四郎は市川團十郎の門弟にあたり、高麗屋も成田屋の弟子筋となっているため、七代目幸四郎の息子が養子として十一代目團十郎となるなど血縁関係もあり、九代目幸四郎と十二代目團十郎はいとこ同士の間柄です。高麗屋の当主が代々、松本金太郎、市川染五郎、松本幸四郎と襲名していくのも、その関係の深さからきています。
屋号の由来は、初代幸四郎が「高麗屋」という商店に丁稚奉公していたことから。それにちなんで、二代目幸四郎が高麗屋と名乗るようになりました。
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屋号の由来・ルーツその3【音羽屋】
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七代目尾上菊五郎は、若いころは女形として、のちに立役を中心に演じた歌舞伎役者です。
テレビでも、当時最年少で大河ドラマの主演をつとめるなど、時代劇を中心にスターとして活躍してき、その功績から人間国宝にも選ばれています。 息子の五代目尾上菊之助も、女形と二枚目の両方をこなし、映画や舞台に幅広く出演しています。
ほかにも、二代目尾上松也が若手俳優として注目。アニメ映画の吹き替えに挑戦するなど、意欲的な活動を行っています。 明治時代には、五代目菊五郎が九代目市川團十郎とならび「團菊」と称されるほど人気を集め、音羽屋も成田屋に次ぐ名門としてあつかわれています。
初代菊五郎の父親は、清水寺の近くで芝居茶屋の出方をつとめ、その境内にある「音羽の滝」から音羽屋半平と名乗っていました。それが音羽屋の屋号の由来となっています。
屋号の由来・ルーツその4【中村屋】
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平成24年に亡くなった十八代目中村勘三郎は、時代劇から現代劇、さらに映画や舞台と幅広く活躍した名優でした。 息子である中村勘太郎と中村七之助も、ドラマやバラエティなど数多くのテレビ番組に出演しています。
中村屋というのは、もともとは江戸三座でもっとも古い歌舞伎芝居小屋の座号でした。座元の猿若勘三郎はこれにちなみ、中村勘三郎と改名。それが座元の名跡として受け継がれ、のちに役者と座元を兼ねるようにもなります。
しかし、明治5年に座と経営が切り離されると、中村勘三郎は歌舞伎役者のみの名跡となってしまいます。 その後、誰も襲名しないまま預かり名跡となっていたのを、昭和25年に十七代中村勘三郎が襲名。それをきっかけに、屋号の「柏屋」も「中村屋」とあらためたのがはじまりとなっています。
屋号の由来・ルーツその5【播磨屋】
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二代目中村吉右衛門は、時代劇を中心にドラマや映画に数多く出演。歌舞伎では、時代物から世話物、新歌舞伎まであらゆる演目を得意とし、人間国宝にも選ばれました。九代目松本幸四郎の弟でもあり、名跡は養子に入って受け継ぎました。 播磨屋の屋号の由来は、初代中村歌六が播磨屋作兵衛の養子に出されたことにちなんでいます。
三代目歌六の次男である初代中村吉右衛門は、「大播磨」と掛け声がかかるほど名優として人気を集めました。 その後、昭和46年には五代目中村歌六をはじめ、三代目中村歌昇、五代目中村時蔵が新しく独立した萬屋へ屋号をあらためます。しかし、平成22年にはふたたび播磨屋に戻しています。