歴史の街として世界的に知られる京都、その京の都の北西部に位置する上京区、北区は古くから織物の産地として知られています。今から550年ほど昔に起こった応仁の乱の際、西軍の本陣が置かれたことから、このエリアは古くから西陣と呼ばれ、西陣で織られる先染め織物は西陣織と呼ばれています。
美しく染められた糸を巧みに操りながら、織り上げられた西陣織の生地の表面には、艶やかで華やかな模様が浮かび上がります。豪華絢爛という表現がしっくりとくるほどに、丁寧で細かな装飾を施された西陣織は、まさに身に付ける芸術品と言っても過言ではないでしょう。
高い技術を持つ西陣織は、江戸時代には諸大名や藩の重役、豪商などのいわゆる富裕層から、高い支持を得ていました。1976年には国の伝統工芸品に指定され、多品目少量生産を続ける西陣織は、世界的に高い評価を得る日本を代表する織物にまで成長したと言えるでしょう。
西陣は西陣織工業組合の登録商標となっているために他の生産地や、西陣織工業組合に加盟していない生産者が西陣織を名乗ることはできません。
西陣織の歴史
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西陣織は5~6世紀に大陸から渡来人の手によって、養蚕と織物の技術が伝えられたことから、始まったと言われています。平安時代に入ると織物技術を持つ職人は、織部司(おりべのつかさ)という役所によって組織化され、官営の産業として綾や錦などの高級織物が生産されました。
しかし、時代が下るにつれ官営で行う織物生産システムは衰退し、織物職人たちは独立した織物工房を営むようになります。大陸から伝わる新しい技術を積極的に取り入れながら、製品の品質向上を怠らなかったことから、京都の機織り職人たちの織り上げる作品は鎌倉時代、室町時代も高い人気を誇りました。
応仁の乱が勃発したことで京の都は戦乱に巻き込まれ、機織りも一端途絶えますが戦乱が治まると機織り職人たちは再び京都に戻り、西軍の本陣跡地周辺で機織りを再開します。ここから本格的な西陣織の歴史が始まったと言えます。
西陣で再興した西陣織の技術のなかに先染めした糸で、高機(たかはた)を用いて色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)がありました。 この技術によって西陣織は朝廷や有力武将などに高級織物として認められます。江戸時代には全国の富裕層から指示される高級織物として西陣織は不動の地位を手に入れました。
江戸時代末期の度重なる飢饉や大火、贅沢をいさめる幕府の奢侈(しゃし)禁止令、そして東京への遷都などの様々な要因で西陣織は苦境に立たされますが、ジャガード織りの技術を採用するなどで近代化を行います。
現在では着物のみならずネクタイやバッグ、財布などの小物、テーブルセンターなどインテリアの生産を行い、日本を代表する高級絹織物の代名詞として、西陣織は世界的な評価を高めています。
西陣織の特徴
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色とりどりの経糸(たて糸)と緯糸(よこ糸)を駆使し、絹の光沢や柔軟性などが重なり合うことで艶やかで華やかな美しい柄を織り上げるのが西陣織の特徴です。特に西陣織で織られた帯は、金糸や銀糸などがふんだんに用いられることで、華やかさを演出したものが多くみられます。
西陣織の工房では主に緯糸で模様を織り出す緯錦という技法で、多品種少量生産が行われています。
綴(つづれ)、錦、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、絣、紬などの多くの種類の絹織物がジャガードを用いて、職人が織る手機(てばた)、自動織機の力織機(りきしょっき)、最も歴史がある綴れを織るための綴機(つづればた)などで織り上げられます。
伝統的な製法を守りながらも、着物や帯の制作に留まらずネクタイやバッグなどに新境地を切り開く柔軟さは、歴史的に新しい技術を取り入れることで、進化し続けてきた西陣織の特徴であるとも言えるでしょう。