愛媛県松山市の道後温泉は「日本書紀」にも登場する日本最古の温泉です。そしてその中心は「道後温泉本館」。だれでも入れる共同浴場で、東の湯田温泉と並び西の横綱に番付されています。 この本館、100年以上公衆浴場として使われています。その長年の劣化もあり、耐震のためと大改修工事が行われることが決まっています。ただし部分改修のため営業は続けられます。 今回は、松山の街のシンボルでもある「道後温泉本館」についてご紹介していきます。 改修が予定される道後温泉とは? 道後温泉は、愛媛県の県庁所在地である松山市にある温泉地です。日本三古湯の1つといわれる歴史のある温泉で3000年の歴史を持っています。聖徳太子も訪れたという伝説もあり、また夏目漱石の「坊っちゃん」にも登場し、愛媛の代表的な観光地です。湯質もよく「美人の湯」と言われています。 温泉街の商店街は、旅館やホテルが充実していて、ぶらぶらするのも楽しいところです。2016年「温泉総選挙」で女子旅部門第一位。温泉地としては比較的街中にあり、松山の空港や駅からのアクセスも良く、松山城など他の観光地とも近いのもポイントです。 千と千尋の神隠しのモデルにもなった道後温泉本館 道後温泉本館は、道後温泉の中心にある共同浴場。1994年には国の重要文化財に指定。重要文化財でありながら博物館にはならず現役の公衆浴場として営業しているのはとても珍しいことです。 平成21年にはミシュラン・ガイドで、三ツ星に制定されました。2009年には、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されています。 道後温泉本館は1894年(明治27年)にそれまであった建物を、当時としては莫大な費用をかけて改築されました。当時珍しかった木造三層楼で、100年先の繁栄を見込んで作られたそうです。 年末の大掃除の日の以外は年中無休。朝6時の太鼓の音で始まります。 1階の「神の湯」2階 の「霊の湯」、皇室専用浴室の「又新殿」や夏目漱石ゆかりの「坊っちゃんの間」も見ることができます。また料金を払うと浴衣を貸してくれ、大広間でお菓子を食べてくつろげます。3階の個室で休憩できるプランもあります。 「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルにもなり、実際にジブリのスタッフが来てスケッチを行ったそうです。 夏目漱石の「坊っちゃん」の中で主人公が湯船で泳いで張り紙をされたエピソードもここが舞台。そのため地元では「坊っちゃん湯」とも呼ばれて親しまれています。 ・振鷺閣(しんろうかく) 本館の3階の屋上に振鷺閣と呼ばれる塔があります。ここでは時刻を告げる「刻太鼓」が朝・昼・夕の1日3回鳴らされます。環境庁の「残したい日本の音風景100選」にも選定。 夜になると赤いギヤマンガラスの障子が光を放ちます。 白鷺伝説 昔、足を怪我した白鷺が、岩から流れ出る湯に毎日足を浸していました。やがて怪我が治り元気に飛びたったのを見た村人がその湯に手を浸すと暖かい温泉であったことで道後温泉が発見されたという伝説があります。白鷺は道後温泉のシンボルとして、モチーフとあちらこちらにデザインされています。 玉の石 道後温泉本館の北側に奉られている「玉の石」。温泉の湯をかけて願いごとをすると、ご利益があるといいます。 大国主命と少彦名命が国造りのために出雲から伊予に入ると、少彦名命が急病になったので、道後温泉に浸すと、元気になって石の上で踊りだしたという伝説からきています。 道後温泉本館の耐震改修工事 道後温泉本館は100年以上も営業を続けているので、経年劣化と耐震のために基礎からの大規模改修工事がなされることが決まっています。しかし、その間、閉鎖してしまうと、観光客が減少し、観光地としては大打撃を受けるので大きく懸念されていました。 最終的に、完全閉鎖ではなく部分的に閉鎖して営業は続けていくことが決まりました。ただし、工事期間が、完全閉鎖するよりも長くなってしまいます。 改修工事はいつから? 2017年9月のえひめ国体開催が終わってから本格的な改修工事に着手して、2024年の完了を目指すといわれていましたが、2020年の東京オリンピック期間中は工事を中断したいと松山市長は発表。 そして2017年現在では、改修工事は早くても2018年(平成30年)秋以降に着手と発表されています。 改修工事の期間は最短5年? …
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出典:写真AC 紅型のもう一つの染色技巧である筒描きは、防染糊を筒状の絞り出し袋のようなもので、図案通りに生地にのせていく技法です。型染とは異なって直接図案を布に描いていくため、二つと同じものが作れないばかりか、失敗が許されない作業です。 下書きをしてから糊をのせることもありますし、頭の中で図案を考えたらそのまま糊をのせることもあります。糊が乾いたら小さい刷毛で染料をのせていき、定着させたら洗い流します。 多色使いの紅型になると、この作業を複数回繰り返さなければならないので大変ですが、型染にはないおおらかでのびやかな仕上がりが魅力です。 紅型に使われる模様 紅型に使われる模様は、他の着物の柄と比べるとあまり季節感がありません。沖縄の風土が年間を通して暖かいこともあり、古典紅型には王族の衣装向けの鳳凰や龍の他、雪輪や松竹梅、山水、流水など様々な自然文様が用いられていました。 その後、芭蕉や貝、海藻、家並みなど沖縄らしい柄も次第に増えていき、近年ではハイビスカスやヤシの木といった南国らしい文様も積極的に取り入れられています。 紅型に使われる色 紅型は華やかな色彩が魅力ですが、基本的には赤、黄色、青、紫、緑の5色を用いています。鮮やかな染料を用いた着色と、濃い色で立体感を出した隈取が特徴的です。 いずれも天然の顔料と植物染料を組み合わせており、発色がよく、染まりにくいものの太陽光による色落ちがしにくいという特徴を持っています。これも、色彩豊かで太陽の光が強い沖縄ならではの染色技法として発展していったためです。 紅型の魅力 出典:写真AC 紅型の魅力は、力強い色彩と繊細で上品な模様の組み合わせです。着物の格式でいえば普段着の小紋に該当しますが、小紋の中では比較的格が高くなりますので、ちょっとした外出であれば着用もできます。 ただし、上品で無難な一般的な着物と比べると、場の雰囲気に合わせながら個性的な着こなしというのは着物上級者向けになりますので、呉服店や着物に詳しい人と相談しながら組み合わせを選んだ方がよいでしょう。若い人が着用すると華やかに、年を重ねて上品に着こなすとワンランク上のお洒落になります。 洋服にも合うオーダーメイドの下駄・鼻緒すげ体験 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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オリエンタルな雰囲気と和モダンな雰囲気を持つアクセサリーとして、数珠を買い求め身に付けている外国人観光客の姿を目にする機会が増えました。しかし、本来数珠は仏具の一つであり、ファッションアイテムとしての使い方は残念ながら誤っていると言えるでしょう。 厄除けやお守りとしての役割も担う数珠は「念珠」や「寿珠」とも呼ばれますが、読経の回数を数える使い方もされたため、一般的には数珠と呼ばれるようになったと伝えられています。 正式な数珠は本連(ほんれん)数珠や二輪(ふたわ)数珠と呼ばれるもので、人間の持つ煩悩(ぼんのう)の数と言われる108個の珠で構成されています。珠の1つ1つにそれぞれの煩悩を司る仏が宿るといわれ、人間の内面に潜むあらゆる煩悩が数珠を持つことで鎮められると言われています。 数珠の歴史 出典:写真AC 日本では古くから仏具としての使い方がされている数珠ですが、今から3,500年近く前にインドで生まれたバラモン教にルーツがあると考えられています。 バラモン教で祀られる毘沙門天、弁財天、梵天などの神々の持ち物として、連珠というものが登場します。連珠の使い方は不明ですが、これが現代の数珠の原型と考えられています。 数珠と仏教の係わりは仏教の開祖であるインドの釈迦が「108個のモクケンシの実を繋ぎ仏の名を念ずることで、国の乱れを治め悪病を退散させることができるであろう」と語ったことから取り入れられたと伝えられています。 日本へは今から約1,500年ほど前の仏教伝来と共に数珠が渡来したと伝えられ、正倉院には聖徳太子の愛用品として蜻蛉玉金剛子(とんぼめこんごうし)の数珠や、聖武天皇の遺品とされる水晶と琥珀の数珠二連が収蔵されています。 鎌倉時代に入り仏教が浸透するに従って数珠は、身に付けることができる仏具としての使われ方で僧侶以外の庶民にまで普及したと言われています。 数珠の種類 出典:写真AC 本連数珠や二輪数珠と呼ばれる108個の珠で作られた数珠は正式な数珠としての使い方をします。これに対して片手数珠や一輪数珠と呼ばれる珠の数を減らし持ちやすく改良した数珠も存在します。 これらの数珠は略式の数珠としての使われ方をします。 宗派によって僧侶が用いる数珠の種類は異なりますが、在家の信者に対しては一般的には略式の数珠の使用を認めていると言えるでしょう。略式の数珠は基本的に宗派を問わず用いることができますが、日蓮宗では日蓮宗の定める数珠の使用が求められると言えます。 また略式の数珠は一般的に男性用は大きい珠の数珠、女性用は小振りの珠の数珠という使い方がされており、東海・北陸地方の一部の地域では女性用の略式の数珠は葬儀の際は無色か白の珠で房も白の数珠が用いられ、色つきの珠や房の数珠は法事やお墓参り、お寺参りの際に用いるような使われ方が一般的だと言えます。 匂い袋(サシェ)とは?|香りによる効能から作り方まで紹介 四国のお遍路はどう巡る?服装・費用・日数など基礎知識も紹介 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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御中元にも人気が高い夕張メロンですが、産地は北海道夕張市で品種名を夕張キングといいます。約1キロから2キロと重さがあり大きな品種で、やや長円形をしています。 灰がかった緑色の皮の表面にはネットと呼ばれる網目がレースの様に広がっています。 割ってみると鮮やかなオレンジ色の果肉で、繊維質が少ないせいかとても柔らかでジューシー、芳醇な香りと糖度が10度以上という強い甘味が特徴です。 夕張メロン作りは1月に種蒔きで始まり5月に初出荷されます。 9月までの4か月間収穫しますが、最盛期は6月下旬から8月上旬です。7月中旬まで出荷されるハウス栽培と、露地メロンといわれるトンネル栽培とがあります。 夏の旬の時期しか食べられない季節限定品です。 普通のメロンと夕張メロンの違いはなに? 出典:写真AC メロンには沢山の種類がありますが、夕張メロンと広く出回っているいわゆる普通のメロンとの違いはなんでしょう。 まず切った時に果肉に青みのある多くのメロンと比べ、夕張メロンは果肉がオレンジ色だということが挙げられます。 夕張メロンイコール赤肉メロンではないですが、夕張メロンの特徴としてよく知られています。他には肉質の柔らかさです。 ほとんどのメロンが果肉はしっかりとした歯ごたえのあるなかで、夕張メロンの果肉の柔らかさは群を抜いています。更に、際立って香りの強い品種といえるでしょう。 最初は美味しくなかった!夕張メロンの歴史 出典:写真AC 山間地で耕作面積が狭く火山灰質の土地の夕張では、昔から水はけの良い土地に適するメロンの栽培に取り組んでいて、大正12年頃からいくつか栽培を試みたものの、糖度が得られず戦争時にはメロンは贅沢品とされて姿を消していました。 昭和32年に自宅用に作られていた「スパイシーカンタロープ」というメロンから夕張メロンの歴史は始まりました。 見た目はウリで甘くなく砂糖をかけないと食べられず、しかもネット(網目)もなく果肉は赤いので、ネットがあり青い果肉が主流の当時と真逆なメロンでした。 しかし、どのメロンにもない芳醇な香りがあり甘くさえなれば、と昭和34年に交配実験が始まりました。 高級メロン「アールスフェボリット」の原種の種を分けてもらえるところをどうにか探し、ようやく昭和35年の夏に、豊潤な香りとジューシーな赤い果肉、とろける甘みをもつメロンができました。 ところがそれでも当時としては革新的な「甘さ」を加えた厳しい出荷規格を満たすことができず、沢山のメロンが捨てられたり農家の猛反発を招いたりしていましたが、「品質管理こそが産地の命」との信念のもと、その年の8月の終わりに目指していたメロンを完成させました。 昭和38年には東京へ向けて出荷しましたが、熟してからの可食期間が極端に短い上に輸送に日数がかかり過ぎ、腐敗のクレームが続出しました。それでコストを無視して空輸でその日の内に築地市場に夕張メロンを届けましたが「カボチャメロン」と赤い果肉を馬鹿にされ、他のメロンの半値以下にされてしまいました。 それでもいつか認められる、食べてもらえばわかると厳しい出荷規格を農家は守り、ついに読売巨人軍へホームラン賞として提供されたのをきっかけに、マスコミに取り上げられるようになりました。 しかし再び配送に日数がかかり過ぎクレームの嵐を受けたため、選果場にデパートの担当者を招き、わずかでも基準に満たないものは容赦なく廃棄されるのを見てもらい、その努力の甲斐あって昭和54年、日本初の産地直送がスタートしました。 こうして夕張メロンは、北海道の名産品というだけでなく、日本の夏の逸品として広く認知されるようになっていったのです。 スイカは野菜?果物?|野菜と果物の違いやスイカの保存方法など 枝豆(エダマメ)の栽培と育て方のコツ|種まきから害虫対策まで紹介 種無しぶどうのおすすめ品種5選|種無しぶどうができるまで この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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抽選倍率100倍の大福 「霧の森大福」は、愛媛県四国中央市の新宮町の「霧の森菓子工房」で作られている抹茶をまぶしたのが特徴のクリーム入り大福です。これがおいしいとテレビでも取り上げられて評判となり、ネット販売は抽選で100倍以上のこともあると、なかなか手に入らないレア感あるお菓子です。今回はこの霧の森大福についてご紹介していきます。 霧の森大福とは? 霧の森大福が作られている愛媛県の新宮町(四国中央市新宮町)は、お茶処として有名です。ここで栽培された「かぶせ抹茶」をお餅に練り込みたっぷり外側にもまぶしています。 生クリームにこしあんをかぶせ、それを抹茶のお餅で包み、さらに外側に抹茶をまぶした贅沢な四層構造。抹茶のほろ苦さと、こしあんと生クリームの甘さがマッチした味は絶妙です。 抹茶は手仕事で 1個50グラムの一口サイズですが、この大きさも計算され尽くした大きさです。これ以上大きくなると抹茶こしあん生クリームがそれぞれが主張しすぎてしまうそうです。 通常のお菓子は抹茶を機械でまぶすそうですが、そうするとつけられる抹茶がわずかになってしまいよくある抹茶味のお菓子になります。そのため霧の森大福は一個ずつ手作業で抹茶をまぶす製法をとっています。原価を気にせずふんだんに抹茶がつけられているお茶処ならでは作り方です。抹茶好きにはこたえられない味です。 霧の森大福の開発秘話 霧の森大福を作っている、霧の森菓子工房は、愛媛県四国中央市の新宮町にあります。四国中央市は愛媛、香川、徳島、高知の4県が接するちょうど四国の真ん中にあり、2004年に合併してできました。霧の森大福が出来た当初、新宮はまだ合併前で旧新宮村でした。山深いところで、かなりの僻地。人口はわずか1400人。 その新宮町で第三セクター方式で会社を設立し、村が25億円の費用をかけて観光施設「霧の森」をつくりました。この時、特産品の「新宮茶」をテーマとすることが決まり「お茶と癒やし」をキーワードにした施設が作られました。特産品を扱う「霧の森ふれあい館」や宿泊施設「霧の森コテージ」などでした。この時「霧の森大福」もいろいろな特産品として開発された食品の1つだったのでした。 霧の森大福は、開発当初の試作品では、お茶の風味の強さから「苦すぎて子どもが食べられない」「こんなもの買わない」とおおむね不評意見でしたが「和のインパクトがすごい」「抹茶好きにうける」という少数意見に押されて改良され、商品化されたのでした。 霧の森大福の売り切れはぷっすまから そして1999年「霧の森」オープン。滑り出しは順調でたくさんの来訪者がありましたが、問題は冬でした。冬には寒くて人が全く来なくなり、商品も売れ残り一気に赤字転落でした。オープンから5年後に四国中央市と合併しましたが、「新宮村の負の遺産」と呼ばれるようになってしまいました。 しかし施設は苦戦したものの食品部門はなかなか好調、地道なPR活動を続けていました。それが功を奏したのが2004年。テレビのバラエティ番組「ぷっすま」で「霧の森大福」が取り上げられたことで、インターネットの注文が殺到したのでした。その後も霧の森大福は売れ続け、霧の森全体が黒字になりました。 霧の森大福のネット通販適応力 霧の森大福のヒットは、インターネット通販で丁寧な対応が好評だったことも要因の1つです。まだネット通販の黎明期で、通販自体トラブルが多かったのですが、スタッフの声が入ったメールをこまめに送ったり、信用を心がけることでネットでの口コミも顧客を呼び込みました。 「霧の森大福」の売上は年間2億円を突破し、霧の森では60人を雇用、茶農家の生産量も1.5倍になっています。また「霧の森」を訪れる人も増えて、施設での滞在時間も長くなるなどいいことづくめです。 霧の森大福が売り切れる理由 霧の森大福がレアで手に入りにくいのは、新宮の抹茶のみしか使っておらず、年間生産量が限定されているためです。 かぶせ抹茶は、収穫前に茶の木にネットをかぶせて造ります。日光を遮ることで色の濃い甘みのあるお茶になるのです。かぶせる時期や収穫に注意が必要です。霧の森大福にはこのかぶせ抹茶の品質が欠かせません。 ↑こちらは「霧の森工房松山店」 霧の森大福が常時買えるのは 「霧の森菓子工房 新宮本店」 「霧の高原センターハウス」 「霧の森工房 松山店」 となっております。霧の高原センターハウスはキャンプ場です。 いずれも一人3箱限定となっています。品薄なので行列ができ、早々に売り切れてしまうこともあります。 霧の森大福はサービスエリアでも買える また在庫は少ないですが高速道路の …
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皆さん和菓子はお好きですか? 今回は和菓子によく使われている「求肥」について皆さんにご紹介したいと思います。 求肥は、餅粉に砂糖とお水を加えて火にかけながら練り上げて作ったものになります。時間が経っても硬くならない為、和菓子やアイスなどに使われています。 皆さんもよく御存知の、羽二重餅や、子どもの頃の駄菓子で御存知のボンタンアメや、雪見大福の外側のお餅の部分はこの求肥をアレンジして使われています。 求肥の由来・歴史 出典:写真AC では求肥はどこから来たのでしょうか? 求肥が日本に伝わったのは、平安時代と言われています。平安時代に中国の唐の国から伝わり私達の嗜好品の材料として使われる現代に至っています。中国では祭礼の際に捧げられていた物だと言われ、当初伝わった求肥は、牛皮と言われていたとされています。 牛皮と言われる所以は、当時は砂糖を現代の様に白く精製する技術がなく、砂糖は黒砂糖が主だったため砂糖を入れた求肥の色が牛の皮のようだった為牛皮といわれたという説があったり、また他に、中国で用いられたお菓子の中に、砂糖と澱粉を混ぜて煮て練ったお菓子に牛皮糖というものがあり、そこから名前の由来が来ているとされる説など、求肥には様々な名前の説があります。 当時日本は仏教思想が広まっており、牛などの獣を食べることを良しとしなかった時代だった為、牛皮という文字が替わり、その後、求肥という字を当てたとされています。 求肥とお餅の違い 和菓子によく使われる、お餅や求肥ですが実はとても似ていると思いますよね。でも実際は違っているのです。お餅は皆さん御存知の通り、餅米をせいろや蒸し器で蒸したものを臼に入れ、杵でついてお餅に仕上げていきます。 つきたてのお餅は柔らかくとても美味しいものですが、時間が経つとお餅は固くなってしまいます。一方求肥は餅米をそのまま使用していくのではなく、一旦、餅粉にしてそれに砂糖や水を加えて作っていきます。 一度餅粉に糖類や水を加えたものを火にかけながら練り上げていくことで滑らかになり、水分を抱え込む糖の性質により時間が経っても、柔らかいままで食べることができるようになっているのです。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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熊本県は福岡と大分、宮崎と鹿児島の4県に隣接しており、九州の真ん中付近にある県です。馬肉の生産が全国で一位であり、県内には馬肉を使った料理店が多数存在しています。また米や野菜などの生産も盛んで、スイカやメロン、ミカンやナスなどは全国でも有数の産地となっています。地酒も有名で、生産している米の品種も多い県です。 観光地として有名なのは熊本城、桜の見どころとしても知られる水前寺成趣園があります。熊本城は中央区にあり、JRの熊本駅から「熊本城周遊バスしろめぐりん」で30分ほどの位置にあります。 現在有料区間は立ち入れませんが、二の丸神社などから天守閣などを見ることができます。水前寺成趣園は同じくJR熊本駅から水前寺公園で下車し、徒歩で4分の位置にあります。公園内の料金は高校生以上は400円、小中学生は200円となっています。どちらも熊本を代表する観光地であり、自然豊かな風景にも出会えます。 熊本の郷土料理① だご汁 出典:写真AC 熊本の郷土料理「だご汁」の「だご」とは、「団子」のことです。小麦粉を練って団子を作り、それを汁物の中に入れて食べる料理です。和風のダシを入れた汁物の中へ入れたり味噌汁の中に入れたりして食べることが多いです。 他の地域でも小麦粉を練って味噌汁などにいれる郷土料理がありますが、「だご汁」の特徴は、ゴボウやニンジン、里芋などの根菜と一緒に食べることが多いということです。 団子は柔らかい方が好まれ、少し溶けたくらいが美味しいといわれています。年中食卓にあがりますが、特に寒い季節には一般家庭でもよく食べる熊本の郷土料理の1つです。 熊本の郷土料理② いきなり団子 出典:写真AC 「いきなり団子」は、熊本では誰しもが知っている郷土料理です。団子といっても汁物に入っている団子ではなく、中にはサツマイモと甘い餡が入っています。この団子の名前の由来は「時間がなくてもすぐに作れる」「お客さんが突然きてもすぐに出せる」という2つの意味があるといわれています。 団子の中にはサツマイモと餡が入っていますが、甘すぎずサッパリしているので誰にでも食べやすい団子となっています。家庭で作ることも一般的で、露店でもよく販売されている熊本の郷土料理です。手軽に作れることから長く親しまれている優しい味の団子です。サツマイモが入っているので腹持ちもよく、手軽に食べられることからオヤツとしても人気があります。 熊本の郷土料理③ ざぜん豆 「ざぜん豆」は砂糖と醤油、そして昆布で大豆を煮込んだ豆料理のことです。昔の修行僧が座禅をする前に大豆を食べたことから、この名前がついたといわれています。砂糖を多めに入れて煮込むので甘みが強いのが特徴で、見た目にもツヤがあります。大豆がギュッと締まり歯ごたえがあり、味がしっかりしみ込んで噛むたびにうま味がでてきます。 保存もきくので熊本では一度に多めに作り、毎日の食卓に並べ常備品として食することが多い郷土料理です。作り方は家庭によっても少々違いますが、伝統として家庭でそれぞれの味が受け継がれることが多いです。 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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美しい漆喰塗の壁を持つ日本家屋。その壁を塗る仕事をしているのが「左官屋」と呼ばれる職人です。日本の左官技術は海外からも注目されるほど高く、その秘密は長く続く左官屋の歴史の中で生み出されてきた道具や技術にあります。 今回は、左官屋という職人の仕事について紹介します。 左官屋とは 出典:写真AC 左官屋とは、代々受け継がれてきた伝統技術を用いて建築に携わる職人を指す言葉です。例えば建築に携わる職種のひとつに大工がありますが、左官屋と大工の仕事内容は全く異なっています。大工は組み立て作業を請け負っているのに対し、左官屋は仕上げ作業を請け負うのが基本です。 左官屋が行っている主な作業として、左官壁の塗り上げがあります。左官壁とは漆喰・土壁・聚楽壁・小舞壁(竹を組んだもの)などのことで、断熱性に優れ温度を一定に保ち、湿度を調整するという長所を持っています。この左官壁を専用のヘラや鏝(こて)を使って塗り上げていくのが、左官屋最も有名な仕事のひとつです。 左官屋の歴史 出典:写真AC 左官屋のルーツは非常に古く、縄文時代にまで遡ることができます。縄文時代に壁の材料として土が使われたのが飛鳥時代になってさらに技術が進歩し、安土桃山時代になると茶室に聚楽壁という壁が使われるようになりました。 江戸時代には漆喰が登場し、また壁を仕上げるための建築技術だけなく、鏝を使った鏝絵が描かれるなど芸術としての価値も高めました。 左官屋が使う道具 出典:写真AC 左官屋の代名詞ともいえるのが鏝。実は海外にも塗り壁という技法は存在しているのですが、日本の塗り壁とは大きく異なっている点があります。それは、鏝の種類の豊富さです。 海外に比べて日本の鏝は種類が非常に多く、塗りつけ鏝・角鏝・仕上げ鏝・木鏝・面引き鏝・切り付け鏝など11種類の鏝を壁の材料や場所、工程などに応じて使い分けているのが特徴です。 例えば先端が細く尖っている笹刃鏝や柳葉鏝は細かい部分を塗るのに向いていますし、目地鏝(外丸・内丸・丸棒)はタイルやブロックなどの目地を塗るのに最適です。さじ鏝(面引き・ラオ面・玉鏝・耳かき)は鏝絵や漆喰に彫刻を施すことができるなど、芸術的な趣向を凝らすのに向いているものもあります。 そして、左官屋が使う道具の2つ目に練り鍬があります。練り鍬とは土や珪藻土など左官壁に使う材料を混ぜ合わせるために使う道具で、重いものは使いにくいが時間がかからず、反対に軽いものは使いやすさはあるが時間がかかるのが特徴です。 左官屋の現状 出典:写真AC 左官屋は多くの伝統産業と同じように担い手を確保することに苦戦しているため、築業界の中でも特に高齢化が進んでおり、大変厳しい状況に置かれています。左官としての技術を継承する担い手不足の課題を改善するために、左官業界は従来の育成方法を見直し、現代にあった育成法であるモデリングを導入しました。 また以前は肉体労働のイメージが強く持たれがちでしたが、最近では漆喰の彫刻や鏝絵など芸術性の高さもクローズアップされてきています。こうした育成方法やイメージの変化に伴って、芸術志向の若い世代や女性などの新たな人材の獲得を実現しつつあるのです。 左官屋の魅力 左官屋は長い歴史を持ち、技術が進歩する過程で漆喰・土壁・聚楽壁・小舞壁などが生み出され、高い技法の上に芸術と伝統を築き上げています。ただ壁を塗るだけの地味で面白みのないぢごとに思われるかもしれませんが、左官としての技術を習得するためには10年単位の長い年月をかけなくてはいけません。それほど高度な技術を要求される仕事なのです。 一朝一夕に習得することができないからこそ後進が育ちにくくもありますが、なにか一つのことを極めて信頼を得る仕事がしたいと思う人には左官屋はもってこいです。日本人ならではの芸の細やかさを随所に感じながら仕事をすることができ、海外からも瞠目される日本の左官技術の高さを誇りに思えることでしょう。 職人気質な仕事がしたい、伝統文化を伝えられる仕事がしたいという人は、左官屋を目指してみてはどうでしょうか。 左官職人の技術を体験してみよう! 今回、左官屋についてご紹介しました。そこで、大人の職場体験予約サイト「ココロミル」では左官職人の仕事を体験できるプランを掲載しています。 他ではできない体験となっているので、是非チェックしてみてください! 業界初!漆喰作りから学ぶ左官職人体験|大人の職場体験予約サイト「ココロミル」 この記事が気に入ったら いいね!を押して最新情報を受け取ろう
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皆さんは、毎日の暮らしの中で日本の文化や歴史に触れていますか。 これまでの日本の文化や歴史を作ってきた偉人や文化人など、後世への影響を強く残した人物も数多く存在します。 そのような、先人のおかげで今の我々があると言っても過言ではありません。そして、 今回スポットをあてるのはかの有名な俳人「松尾芭蕉」です。 松尾芭蕉とは 出典:ぱくたそ 教科書にも載っている歴史的人物ですので、日本人なら多くの人が知っています。「松尾芭蕉」と言えば俳句で有名で、 江戸時代前期の俳諧師(「俳諧」とは、俳句の元の事)として、 「俳諧」を芸術として確立させた偉大な人物です。 松尾芭蕉の出身地は、現在の三重県伊賀地方にあたる伊賀国で、 農民として生まれました。 そんな松尾芭蕉が俳句を始めたのは10代後半の頃になります。 当時、俳人(俳句を作る人)として有名であった 北村季吟(きたむらきぎん)の下で俳諧(俳句)の勉強を始めたのです。 18歳から北村に一人前として認められるまでの30歳まで、12年にも及ぶ長い下積み時代がありました。 後世に影響のある人物となった芭蕉にも、地道な修行時代があったのです。 その後、松尾芭蕉は江戸に住み多くの俳人と交流をし、武士や商人などの街の人々に俳句を教える傍ら、数多くの作品を発表していきます。 松尾芭蕉の俳句の中でも最も有名なのが「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」であり、また紀行文である「奥の細道」も有名です。 歴史の教科書にも登場しますので、皆さんもご存じのことでしょう。 松尾芭蕉は、作品を生み出すと共に、様々な場所へ旅にも出向いていました。 そして数々の俳句を発表し、旅を続け年齢を重ね、50歳の時に大阪にて病死しました。 人望も厚かった松尾芭蕉 この時、松尾芭蕉の葬儀にはなんと300人以上の弟子達が参列しました。 俳句の素晴らしさだけでなく、人間的にも多くの人々に親しまれ魅力ある人物であったのです。 松尾芭蕉の没後、彼の作品である俳句は、今現在でも語り継がれる歴史的産物として、今も我々の生活に根付いています。 松尾芭蕉の俳句をはじめとした作品は、どのようなものがあるのか、その代表作をいくつかピックアップして解説していきます。 松尾芭蕉の代表作「奥の細道」 松尾芭蕉の代表作として知られている「奥の細道」とは、一体どのような作品なのでしょうか? 俳句で有名な芭蕉ですが、「奥の細道」は、俳句ではありません。 「奥の細道」は、実際の旅の行程をまとめた紀行文です。 …
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