古伊万里(こいまり)と伊万里焼の違い|歴史・特徴・魅力を紹介

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古伊万里はいつから始まったのか


出典:ウィキメディアコモンズ

古伊万里は、日本で最初に作られた磁器です。17世紀初頭、豊臣秀吉の朝鮮出兵により多くの陶工が佐賀藩に連れられてこられ、その技術が伝わったのが始まりとされています。

通説では、李参平(金ヶ江三兵衛)が有田で磁土を見つけ、元和2年(1616)に天狗谷窯で焼きはじめたといわれていますが、定かではありません。

当時は伊万里ではなく、「今利」や「今里」などと表記されていました。初期には青一色の染め付けが行われ、次第に華やかな色絵がほどこされるようになると、1647(正保4)年には中国船によってカンボジアへはじめての輸出が行われました。

その後、古伊万里の評判を聞きつけたオランダ東インド会社によって、1659(万治2)年からヨーロッパへ向けて本格的な輸出が始まります。 分業体制による量産が行われ、50年ほどの間にじつに200万個以上もの作品が海外へ渡ったといいます。

18世紀前半になると、ヨーロッパでも磁器が作られるようになり、貿易は終了。それ以後は国内で、大名や公家、商人などの富裕層向けの作品が中心となっていきます。

さらに、江戸時代後期にはより安価な磁器が作られるようになり、その使い心地と丈夫さから庶民の間でも広く用いられるようになっていきました。

古伊万里と伊万里焼の違い


出典:ウィキメディアコモンズ

古伊万里と伊万里焼は、いずれも同じ産地で作られた陶器ですがもっとも大きな違いは、骨董品的価値の有無です。作られた年代が江戸時代なのか明治になってからなのかによって価値も大きく異なっています。

古伊万里が作られていた時期は、中国で明が滅んだ混乱期にあたり、ヨーロッパで重宝されていた磁器の輸入も途絶えてしまいます。それを埋めるために、オランダ東インド会社が見出したのが古伊万里でした。

古伊万里は王侯貴族の間で大いに受け入れられ、磁器だけで埋めつくす「磁器の間」が宮殿に作られるほど流行しました。 このような経緯から、江戸時代に作られた古伊万里はより価値の高いものとなっているのです。現在でも世界中で人気を集め、「Imari」、「Japanese Imari」、「Old Imari」などの名称で、多くのコレクターの間で取引されています。

一方、江戸時代後期に古伊万里の輸出が行われなくなり、明治時代以降になると国内でも「伊万里焼」という名称が定着するようになりました。この時期の作品が、現在でいう伊万里焼にあたります。

伊万里焼と有田焼の違い

伊万里焼は、現在の佐賀県有田町を中心に広い地域で作られていました。

つまり、有田で作られていた磁器も、伊万里焼に含まれていましたが、伊万里焼と区別して呼び分けられるようになったのは、輸送手段が変わったことがきっかけでした。伊万里焼という名称は、主に伊万里の港から出荷されていたことに由来しています。

しかし、明治30年(1897)には九州鉄道が開通すると、その輸送手段は鉄道に取って代わられるようになります。 それに伴い、磁器の名前も産地のほうが優先され、有田焼の名称が定着していったというわけです。

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