向山楽器店/三味線職人
二代目 向山 正成
東京都認定の伝統工芸士
1951年生まれ
東京邦楽器商工業協同組合専務理事
なんでも鑑定団 鑑定人
<東京三味線とは>
中国(明)の三絃であると考えられ、琉球(沖縄)に伝わり日本本土へは室町時代末期に琉球の三線として当時の貿易港堺にもたらされた。当初は音楽を専業とした盲人の扱うところであったが、伝来後、間もなく民間にも急速に普及し芸術音楽・民族音楽を問わず日本の音楽として代表的地位を占めてきた。
江戸時代の粋
江戸時代に入ると歌舞伎音楽の発達と共に、江戸の町を中心として三味線音楽も盛んになった。その頃に、三味線自体も江戸風の独特なもの(細棹の発達)に改良され、「粋さ」が強調された。この独特さが現在まで伝承され、東京三味線と呼ばれている。
向山楽器店があるのは東京都江戸川区。
平井駅から商店街を抜け、徒歩10分ほどのところにあった。緑色の庇が印象的な扉を開けると元気な声で出迎えてくれた。
中へ入ると、一人分の作業スペースと横には三味線がたくさん並んでいた。一つ一つを手作業で作り上げているという。三味線を作るのにどれくらいの工程があるのだろうか。
東京三味線ができるまで
「三味線というのは大きく分けて棹と胴の2つパーツを組み合わせてできています。先に棹の部分から制作していきます。
荒木→木取り→肌つき→細金入れ→丸め→磨き
という工程を経て棹が完成します。次に胴の工程に移ります。
胴さわり溝つけ→焼抜き→胴仕込→皮張り→糸巻スゲ→糸掛け
という工程で三味線が完成します」
大まかに説明してもらったが、もっと細分化をすれば60工程以上あるとのこと。それが手仕事で作られていると考えると高価な楽器だということは頷ける。
現在は東京都認定の伝統工芸士としての地位を築き上げた向山さんだが、この世界に足を踏み込んだきっかけを聞いた。
始まりは「家業を助けたい」という思い
「親父の跡継ぎですね。小さいころから継ぐようにと教育を受けていたので意識はしていました。ただ、高校3年生の時に大喧嘩して、卒業後は会計事務所に入りました。親子なので永遠に喧嘩しているわけもなく、時間が経つにつれて仲も戻っていきますよね。同時に家業が忙しくなっていて、人手が足りないということで自分が20歳の時に、家業を助けたいという思いで家業を継ぐことにしたのが始まりですね」
会計士から三味線職人へ転職した最初の頃は苦労したと向山さんは話を続けた。
「自分が仕事に慣れていない時代ですね。琴の糸締めに行くお仕事がありまして、エアコンがまだまだ普及していない時代だったので、手汗で糸を汚しちゃってね、お客さんに怒られました。それがきっかけでお客さん無くしたこともあって、最初は大変でしたね」
笑顔で話している向山さんの今があるのは、厳しい修業時代があったからこそだと感じた。
今では誰にも負けないことがあるとのこと。
品物を見る目は誰にも負けない
「鑑定する力ですね。品物を見る目は誰にも負けない。東京都の伝統工芸品に指定された時に資料作りには携わっていましたからね。自然と見る目は養われましたね」
逆に営業は苦手。思ったことを正直に言ってしまうからだそうだ。職人らしい一面である。最後はそんな口下手な向山さんに東京三味線の魅力について語ってもらった。
東京三味線の魅力を伝えたい
「ギターだとフレットと呼ばれる金属の棒の部分に弦を指でおさえれば音が鳴りますよね。でも三味線にはなにもないんですよ。逆に言えばどんな音でも作れるということです。中間の音でもなんでも作れる。それが三味線の魅力。特に『サワリ』という三味線の構造的に響く要素があって、それが三味線の特徴であり魅力なんですよ」
向山さんは、若い人達に知ってもらうために日々イベントに出店したり、東京三味線の振興活動をしたりしている。
小さな積み重ねで三味線の産業を盛り上げていきたいと目を輝かせていた。
インタビュアー後記
ご自身の失敗談なども、すべて話してくださる誠実な人柄が魅力的でした。
東京都認定の伝統工芸士であり、組合の専務理事をされているにも関わらず低姿勢で謙虚な向山さんの職場体験は三味線以外にも学ぶべきところがたくさんあると思います。インタビュー中には、人生の目的を達成する為には6つの”気”が大事というお話を伺いました。気になる方はぜひ一度訪れて聞いてみてはいかがでしょうか。自身の成長にも繋がるかもしれません。