横山大観の代表作4選|生誕150年・没後60年を迎える日本画家

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横山大観とは、1868年(明治元年)から1958年(昭和33年)までの90年間を生きた日本画家です。 今年2018年は横山大観の生誕150年、没後60年となる年になり、生誕150年を記念した個展が各地の美術館で企画されています。

横山大観は、本名を「横山秀麿」といい、府立一中や東京英語学校に通う頃から絵画に興味を抱くようになり、はじめは洋画家である渡辺文三郎に鉛筆画を学びました。

その後、近代日本画の父とも呼ばれている加納芳崖らに教えを受けた後、東京美術学校の1期生として入学し、岡倉天心や橋本雅邦らを師事し、卒業後は京都で仏画の研究を始めることになります。 また、仏画の研究を始めた同時期に京都市立美術工芸学校予備科教員となり、この頃には雅号である「大観」を使用するようになります。

1896年には京都市立美術工芸学校を辞職し、母校である東京美術学校の助教授に就任しますが、その直後、当時の校長であり、自分の師でもある岡倉天心への排斥運動がおこり、岡倉天心の失脚につながります。そして、師である天心の失脚にあわせて自らも辞任し、日本美術院の創立へと関わっていきます。

美術院設立後の横山大観は、西洋画の画法を日本画に取り入れる新たな画風の研究を重ね、「没線描法」と呼ばれる輪郭を明瞭に描き表さない手法の絵画を発表していきますが、先進的な画風は批判を浴びることになります。

現在ではこの技法を「朦朧体」や「縹緲体」と呼んでいますが、これらも当時は批判的な言葉でした。その後、横山大観は、東京美術学校の同期生であり、一緒に西洋画の画法を取り入れる研究をしていた菱田春草と海外に渡り、各地で展覧会を開くと高い評価を得ていき、日本国内での評価も高まりました。

1907年には、同年に始まった文部省美術展覧会の審査員として就任したことにより、ここまで活動が途絶えてしまっていた日本美術院を再興するに至りました。

横山大観の作品の特徴

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出典:Wikimedia Commons

横山大観の作品の特徴として挙げられるのは、すでに紹介したとおり「朦朧体」と呼ばれる輪郭をはっきりと描き表さない手法です。

これまでの日本画は、写実的ではなく、「鉤勒」と呼ばれる輪郭線がはっきりと描かれており、また簡潔な表現であったといった特徴を、1882年にアメリカの哲学者であるアーネスト・フェノロサが日本画の優れた点であるとして評価してされました。

しかし、横山大観の日本画は、これまでの日本画に西洋画の要素を取り入れた新しい日本画として、フェノロサが評価した日本画とは対抗するような日本の絵画としての特徴が見られます。

横山大観の代表作①

夜桜


出典:足立区綾瀬美術館 ANNEX

横山大観の代表作は多くありますが、まずは「夜桜」を紹介しましょう。 「夜桜」は、横山大観がローマ店に出品するために、1929年に描かれた作品です。

六曲一双という、六つ折りの屏風を左右に使った非常に大きな画面に描かれたもので、横山大観の作品の中でも華やかな装飾性が特徴的です。 また、群青や朱色などの濃彩、月には白金を使うといった鮮やかさと迫力は横山大観の作品の中でも抜きん出たものです。

横山大観の代表作②

生々流転

「生々流転」という作品を紹介します。「生々流転」とは、40メートルを超える日本一長い画巻として知られる作品であり、水の一生を描いた水墨画です。

山間の雲から滴る一粒の雫が地に落ち、流れ始めたところから始まり、川となり周囲の山や動物、そして人々の生活の基盤となり、やがて海へと至ります。 そして、荒れ狂う海に龍が踊り、天へと戻り繰り返すという、一粒の雫の一生を描いています。

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