平安時代といえば宮廷文化が栄え、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などの女流文学も登場するなど実に煌びやかなイメージがあります。
その平安時代の煌びやかなイメージを担うものとしてよく思い浮かべられるのが十二単ではないでしょうか?
まず十二単という名称、実はこの名称は正しいものではありません。
一般的に十二単と呼ばれていますが、正しくは「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」といいます。
ではなぜ十二単という名称が浸透してしまったのかといいますと、『源平盛衰記』の文中に十二単という記述がありそれが誤った解釈で広まってしまったのが原因だとされています。
十二単の歴史、どんな人が着ていたの?
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十二単は平安時代中期に貴族の女性が着ていた装束のことで主に宮廷で働く女性の正装として着られていました。また十二単を着るときというのは決まっており、天皇の御前への伺候をする際や祝い事などの際に着用していました。
現在、十二単は天皇がご即位される際や、紫宸殿の儀など皇族の晴れの日に着用されています。十二単は、非常に長い歴史を持ち、現代へと引き継がれてきた日本の伝統衣装なのです。
十二単はすごく重い!
十二単は、見るからに重そうですが、はたしてどれくらいの重さがあると思いますか?
十二単の重さは、およそ二十キロもあったようです。
また十二単はこれだけの重量になるほど着こんでいただけあり、暑さも相当なものでした。平安時代の宮廷に仕える女性たちは、さの厳しい冬の時期に防寒着としても重用されていたという説もあります。
実は12枚ではない?十二単の構造
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十二単の構造は上から唐衣・表着・打衣・五衣・単・長袴・裳となっています。着こんでいる枚数は唐衣一枚に表着一枚、打衣一枚、五衣五枚の計八枚となっています。それでは十二単を構成している衣についてそれぞれ紹介していきましょう。
唐衣は公家の男性の正装にあたる束帯と同様女性の第一正装とされていました。
そして唐衣という名前ですが唐の衣装を模倣して作られたことからきています。また唐衣は文様が施されていたため見るも鮮やかな衣装でもありました。表着は打衣や五衣同様袿ですが袿の中で一番上に着るものであったため表着という名前がついています。
打衣は衣にハリや光沢を出すために、砧台の上に衣を置いて杵で叩く、砧打ちという加工をしていたことからこの名がついています。
しかし時代に変遷に伴って、砧打ちは行われなくなり、代わりに板引が行われるようになりました。打衣は江戸時代になると簡略化して着る機会が減りました、しかし小袿の下には着られていたようです。
五衣は袿を五枚重ねて着ることから名前がついています。五衣はグラデーションの美しさに重点を置いていたようで、十二世紀以前には五枚ではなく十数枚も重ねていたようです。単は裏地のない衣のことで、色は特に決まりはありませんでしたが、模様は菱のみとなっていました。
長袴は筒状の形をしていて、裾が長いため後ろに引いていました。裳は目上の人にお会いするときには、必ず身につけなくてはならないものであり、十二単の中でも重要な役割をはたしていました。