「心頭滅却(しんとうめっきゃく)」の意味と使い方|類語・由来

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【意味】 人間の心を無にすること。
【由来】 戦国時代の臨済宗の僧、快川紹喜の辞世の言葉より
【類語】 無念無想・明鏡止水
【対義語】 煩悩
【英訳】

「心頭滅却」という言葉をご存知でしょうか。この四字熟語は単体で使うことは少なく、その下「火もまた涼し」まで続けて用いるなら、比較的馴染みがあるでしょう。この慣用句は「心頭滅却」した結果を説明しているのであり、重要なのは、「心頭滅却」です。

心頭滅却の意味


出典:写真AC

では、心頭滅却とは何でしょうか。「心頭滅却」は「心頭」、つまり人間の心を無にすることです。「頭」は物理的な頭や脳みそのことではなくて、「~のあたり」の意味です。

そして滅却とは、何もない状態にすること。もともと仏教では、心を無にすることを大変重視します。禅宗ではとりわけ重要です。雑念だらけの心を空っぽにすることは決して簡単なことではありませんが、それに成功すればあらゆる苦しみから逃れることができるとされます。つまり解脱(げだつ)です。

今でも火の上を裸足で渡る荒行が、伝統行事として各地に伝えられていますが、火の上を渡っても火傷をしない理由として「心頭滅却」という言葉がいわれます。

一念により、体の機能まで支配できるのです。修行僧でなくても、念じて渡ってしまうことがあります。人間の体の力、心の力、さらに言葉の力もまた凄いものではないでしょうか。

心頭滅却の由来・言葉の背景


出典:写真AC

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という慣用句は、戦国時代の臨済宗の僧、快川紹喜の辞世の言葉として伝えられます。ただこれには原典があります。唐の詩人、杜荀鶴の詩の一節です。それがなぜ日本の禅僧の言葉として伝えられているのでしょうか。

次のような故事に因ります。織田信長に追われた、武田方の人物をかくまった恵林寺住職・快川紹喜がその引き渡しを拒んだところ、織田勢に焼かれて亡くなったという話です。

焼かれたのは事実ですが、言葉のほうが事実かどうかはわかりません。ですが騒乱の時代に信念を貫き焼かれた僧の、末期の言葉として現代に語り伝えられているわけです。

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心頭滅却の類語・対義語


出典:写真AC

「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、戦乱の世に相応しい言葉かもしれませんが、現代人も使います。先の、火渡りの儀式だけでなく、草津温泉のような熱いお風呂や、熱いお灸を据えるときなどに思わずつぶやく人も多いのではないでしょうか。

それぞれ効能を得るための一時的な苦しみですから、仏教のいう苦しみとは些か異なるかもしれません。ですが、心の持ちようでもって、体をコントロールしようという意味においては、根底の発想には同じものがあるのではないでしょうか。

夏の暑さを逃れるために使うことも現代用法でしょう。ですが、心のコントロールという意味では誤用ともいえないように思います。 心頭滅却の類義語としては、「無念無想」「明鏡止水」などがあります。

いずれも、雑念に心を惑わされることなく、無我の境地に達した様を表す仏教用語です。無念無想は、「思慮のないこと」という悪い意味もありますが、元の意味は無心になることです。

明鏡止水の「明鏡」とは、曇りのない鏡を、「止水」とは、流れないで止まっている水のことを指します。ですので、「明鏡止水の心境」などのように使います。

他方、心頭滅却の対義語としては、心が無になっていないことを指すわけですから、「煩悩」が適当でしょう。人間は、煩悩によって苦しむわけで、これを克服することで悟りが開けるわけです。

心頭滅却から学ぶ


出典:フォト蔵

甲斐の恵林寺で焼け死んだ快川紹喜は、もちろん負け惜しみや腹立たしさから「心頭滅却」といったのではありません。

自分の信念を貫き、不当な権力にも負けない境地に達していたからこそ、死ぬことを恐れていなかったのでしょう。そして苦しみでもなかったのです。

その禅僧としての境地に、後代の人は尊敬を抱き続けてきました。私たちも快川紹喜には到底及ばないにせよ、何事も恐れず、惑わされない強い精神を持ちたいものですね。

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