夏の風物詩「鵜飼」 鵜匠と鵜の間に結ばれた深い絆とは

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岐阜の長良川や京都の宇治川などで、毎年晩春から初秋にかけて催される「鵜飼」。真夏に最も盛りあがりを見せる夏の風物詩でともいわれるこの鮎漁。なかでも長良川の鵜飼はとりわけ有名で、毎年多くの観光客が訪れる。ここでは岐阜の長良川で行われている鵜飼について説明します。

名だたる武将に気に入られ、幕府に保護された鵜飼

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鵜飼は鵜を鵜匠が巧みに操りながら、鮎を中心とした川魚を獲る漁です。中国から伝来したという説と、日本で発祥したという説がありますが、どちらが起源なのかは定かではありません。ただ、古墳から鵜飼を表現した埴輪が見つかっていることから、その歴史は非常にふるいと考えられています。

古事記や日本書紀にも鵜飼に関する記述が残っていて、中国でみつかった古文書にも鵜飼のことが書かれているのです。長良川の鵜飼は7世紀には既に始まっていたと言われていて、正倉院で保管している文書の中に鵜匠の名前が出てきます。つまり、長良川の鵜飼は1,300年以上の歴史があるのです。

また、鵜飼を単なる漁としてではなく、おもてなしとして客人に見せることを始めたのは、なんとあの織田信長です。信長の息子である信忠と武田信玄の娘が婚約した時に、信玄のもとから祝儀の品を届けにきた使者に鵜飼を見せたといわれています。

鵜匠は身分を保護?知られざる皇室との関係

その後も徳川家康が大阪夏の陣の帰路、息子と一緒に長良川で鵜飼を楽しんだという記録も残っています。家康は、その時食べた鮎をたいそう気に入ったようで、それ以来鮎鮨は上納品として使われるようになりました。また、この頃から幕府が鵜飼を保護したため、鵜匠は自由に航行する権利や、冬に鵜の餌を確保することなど、さまざまな特権が認められました。

1878年に明治天皇が岐阜を訪れた際に、随行した岩倉具視らが鵜飼を鑑賞し、それを皮切りに鮎は天皇家に献上されるようにもなりました。しかし、明治維新とともにそうした鵜匠の特権はすべて無くなり、鵜匠は消滅の危機にさらされるようになったのです。そこで、当時の岐阜県知事が宮内庁に、その窮状を申し入れ、それをきっかけに鵜飼は宮内庁(現在の宮内省)に保護されるようになりました。

岐阜県では、いまも長良川流域の3ヵ所を御猟場(いまは御料場と言われている)と定め、そこは御陵鵜飼といって年に3度、天皇家に納める鮎を獲るための鵜飼が催される時だけに使われ、一般人には開放されていません。また、鵜匠は宮内省主猟寮の職員として身分を保証されています。

世界中の人を魅了する、勇壮な鵜飼の風景

現在(2017年)、長良川には6名の鵜匠がいます。それぞれに自分の鵜を育てているのだが、皆、鵜を家族や兄弟と同じように愛情を持って育てていて、年老いて鵜飼ができなくなった鵜も大切に終生鵜匠のもとで暮らしています。

つまり、鵜匠と鵜はかけがえのないパートナーであり、鵜匠は毎朝、鵜籠に入っている鵜を一羽ずつ取り出して、喉や腹の健康状態を確かめます。そして、夕方になると、その日一緒に出漁する鵜を決めて鵜飼に向かいます。「まわし場」という待機所で鵜飼に出る順番を決めた後に、鵜飼い船は観覧船と併走するように川下りを始めます。6堰の船があかあかと松明を灯して川を下る姿はとても勇壮な光景です。

そして、川を下り終えたら、今度は6隻の船が川幅いっぱいに斜めに広がって川を上ります。その姿もまた美しく、見る人を魅了するものとなっています。鵜匠と鵜は、家族として共に一生懸命漁をするため、そこには強い絆が結ばれているそうです。毎年、鵜飼のシーズンが終わると、亡くなった鵜に感謝を捧げ、弔いをするための供養が行われるのです。

海外からも多くの人が鵜飼の鑑賞に訪れるようになり、来賓として訪れたイギリスのエドワード皇太子は、「ワンダフル!」と何度も口にしたそうです。鵜飼は、今後も世界に誇れる日本の文化として引き継がれていくこと間違いありません。

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